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ナザレのイエス イザヤ(4)

ヴィセント ギリェム 「魂の法則」 小坂 真理 訳
http://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf
〔抜粋〕

・ イエスの地上での使命

ギリェム: 第二点目では、(2)聖書や他の聖典が神の御言葉である、と信じることは間違いだと言われましたね。

イザヤ: そうだ。

ギリェム: では、聖書が神の言葉でないのであれば、何だとお思いになっているのですか?

イザヤ: 旧約聖書は何冊かの本が纏まったもので、イスラエルの歴史の一部が収められているが、指導者達の征服欲を正当化し、それが「神の意志」であったと見せ掛けるために都合が良い修正がなされている。
 また、平均よりも霊的に進化した存在、つまり預言者達のかなり正しい教えも記載されているが、それは既に、宗教的な信仰が狂信的に操作されていることを警告しており、真の霊性とは如何なるものかを垣間見ることが出来る。
 一方、新約聖書は、イエスの生涯で最も特出した事実、特に最後の数年間の公での説教に関する口頭伝承を収録しようと試みたものだ。
イエスが伝えようとした教えを部分的に収めた「福音書」と、以後の使徒達の生活「言行録」と、人類の未来に関する著者の一連のヴィジョンを集めた「黙示録」とから成る。


ギリェム: 「文書」に関して余り良い心証がないようですが、論拠を裏付けするために、折に触れ、新約聖書の文言を引用されていますね。

イザヤ: 全てが偽りだとは言っていない。各々の事柄は其々正しく評価されるべきだ。
山上での説教(垂訓)のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私は引用しているのだ。
 イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうすることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことから救ったのだ。人には比喩の意味が良く理解出来なかったので、教会の検閲に引っ掛からずに済んだのだ。

ギリェム: 例を挙げて下さいますか。

イザヤ: 例えば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収録されている。初めのヨハネの三章は、もう見たとおり、イエスとニコドモの会話の中でだ。
 イエスは彼に答えて言った。「よくよくあなた(方)に言っておく。人は誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることは出来ない」
ニコデモは言った。「年をとっているのに、人はどうして生れることが出来るのですか? もう一度、母の胎に入って生れることなど出来ましょうか」
 イエスは答えられた。「よくよくあなた(方)に言っておく。人は、水と聖霊とから生れなければ、神の国に入ることは出来ない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生れる者は霊である。あなた方は新しく生れなければならないと、私が言ったからとて不思議に思うには及ばない。(...)天に昇った者はいないが、天から降った者はいる」(ヨハネ 3, 3-13)
 二つ目は、マタイの17章、10-13節だ。
そこで、弟子達は、イエスに尋ねて言った。
「一体、律法学者達が、エリヤが先に来る筈だと言っているのは、どうしてですか?」
イエスは答えて言われた。
「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どおり直すのだ。しかし、あなた方に言っておく。エリヤは既に来たのだ。ところが人々は彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」
その時、弟子達は、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

ギリェム: それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに関しては、どんな姿勢でいるべきですか?

イザヤ: いいかね、全ての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる聖典があるのだ。そうしなければ、自分達の神聖さを正当化出来ないからだ。
だが、霊的に進化している者や高次の霊に感化されて書かれた可能性があるものが存在していることは確かだが、現実的には君達と同じような人間によって書かれたものなのだ。
何れにせよ、著者の名前には惑わされず、常に内容を吟味してみることが、騙されないための一番良い方法だ。メッセージの質を見れば、作者の霊的レベルが分るであろう。
 また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手によることもあるのだ。千余年にも亘って原本が偽造・改変されて来て、聖なる仲介者だと勝手に名乗りを挙げる者の利益となって来たのだ。
それ故、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のものは詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書かれている可能性もある。
そして真実は、徹底的に中味を分析して、「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ知り得ることが出来るのだ。

ギリェム: 地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳しい戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、それをどう思われますか?

イザヤ: 魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押付けて成り立つ学説や宗教は全て本物とは言えないし、神や高次の霊性からの恩寵だと看做すことも出来ない。
従って、これらの宗教の権威者達を、真の霊道の導き手だとは看做せない。何故なら、霊性の指導者は、絶対に力を行使したり操ろうとすることがなく、特定の掟を強要することもないからだ。

ギリェム: 地上の宗教は、神の意志を代弁してはいないので、本物ではないと言われるのですか?

イザヤ: 全ての宗教には、高次の存在から閃きを得た真実の一部と多くの虚偽とがあるのだが、後者は、地上の利益に左右された者達が付け加えたのだ。

ギリェム: 例を示して下さいますか。

イザヤ: 宜しい。例えば、旧約聖書の中の十戒はかなり的を得た規律であり、霊的に進化した存在の教えに忠実だ。
十戒の一つに「汝殺す勿れ」がある。それなのに同じ旧約聖書の中には、神と称する者が、仮定上の「約束の地」を征服するために、イスラエルの民を他民族の攻撃に派遣するくだりがあるのだ。
 当然だが、このような戦闘では、人々はお互いに戦って人を殺す羽目になるのだ。つまり、そのくだりが本当であるなら、神が民に「殺せ」と命じたのだと推測出来るのである。その場合、この(殺せという)メッセージは、最初の「殺す勿れ」と矛盾する。
 それでは、この明らかな逆説をどう解決すべきだろうか?
神が矛盾したことを言ったのだろうか。でも、桁外れに進化した存在に、それは認め難いであろう。
それなら、二つの指示は其々異なる動機を持った別々の者に由来するのだ、と認める必要があるのではなかろうか。
では、「殺すな」というメッセージと、「殺せ」というメッセージとでは、どちらが常識的に見て、霊的に進化したものだと言えるだろうか。

ギリェム: 僕にとっては、「殺すな」の方ですが。

イザヤ: この教えが高次の霊性からであることを認めるのであれば、その反対のものは同じ源から生じてはいないのだ。

ギリェム: では、何処で生れたのでしょうか?

イザヤ: 侵略に興味があった者達によるのだ。

ギリェム: でも、それは過去の事例ですから。

イザヤ: 現在でも同じことが繰返されているのだよ。
表向きは熱心な神の信奉者とされ、何時も「神のご加護がありますように」という言葉で演説を終らせているのに、自国民を他国の侵略に派遣するのを厭わないリーダーが、現在の地球上には沢山いやしないだろうか。
何百万もの死者を出し、何百万もの家庭を何世代にも亘って破壊しているのに、聖書の詩篇や「神を信じる」、「神は我々と共に!」などの言葉を、自分達の行為を正当化するために利用してはいないだろうか。
 はっきり言っておこう。 神や高次の霊性を持つ存在は、紛争の一方の側を味方することはしないし、如何なる侵略も征服も支持することはないのだ。
もしそうするのであれば、神自身が、宇宙に設けた諸法則の一つの「愛の法則」を侵すことになるからだ。
 前述のような人達は、ユダヤ教徒やキリスト教徒が守るべきだとされる「主の名を妄りに唱えてはならない」という戒律を侵しているのだ。
それなのに、恰も神が、神の子を蹂躙することに同意したかの如く、その名を利用して、自分達の非道を正当化しようとしているのだ。
これが、神の名を妄りに唱えるということで、一部の者が思っているように、俗っぽい話の中で「神」という言葉を使用することではない。

ギリェム: それでは、神によって選ばれた民ということについてはどうですか?

イザヤ: 神に優先される民族や人間などは存在しない。神や高次の霊性は、他の者を虐げて特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、全ての人に進化の計画を推し進めるように呼び掛けるのであり、それに協力したいかどうかを決めるのは、各魂である。
 勿論、神の法則に従うようにと、誰にも強いられることはない。
望みとあらば、各人の意志と能力に応じて、個人や集団での人類の進化計画で、具体的な役割を果す約束をすることが可能だ。これが、魂の選択なのである。
 故に「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎず、それによって、自分を成長させるだけではなく、未だこの呼び掛けに心を許していない者の手本となるのである。

ギリェム: そのように、霊的な世界からの呼び掛けに心を開く人達は、神秘主義者や預言者と関係があるのでしょうか?

イザヤ: 霊界との直接的な交信は、ごく一部の人達だけの特権ではないのだよ。
既に言ったことだが、全員が個々に、神や高次の霊性や自分のガイドとの直接的な繋がりを持っていて、其々が独自の方法で、それを体験して行くのだ。
 大切なのは、誠実に謙虚にコンタクトを求めるということと、魂を成長させるという目的が、探求の動機付けであることだ。
もしそうであれば、各人に、其々が必要としているものが与えられるであろう。
体験の華々しさが重要なのではなく、その経験を、欠点を正当化するためにではなく、愛に於ける進歩のために役立てることが大切なのだ。
 不幸なことに、「アセンデッドマスター」やその手の重要な人物だと思われたいという欲望から、自己暗示による経験を本物だと思い込み、他の人を騙してしまうような人が沢山いる
また、本当の霊的な交信をした後で、その経験を、自己進化や他者の援助に活かす代りに、偉ぶって、自分は優れていると思い込み、他者に神の如く扱われることを要求する人もいる
自分をどう改善するかを追求するよりも、他者の称賛を求めてしまうのは、虚栄心からの欠点だ。残念だが、これは君達の世界ではごく頻繁に見られる現象だ。
                         (続く)

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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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