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ナザレのイエス シルバー・バーチ(1)

 「イエスは実在しなかったが、モデルとなる人物はいた」と主張する人がいます。
そうかも知れません。しかし、私にとって、そんなことはどうでも良く、ただ、その「教え」に価値があるか否かが問題です。
ある真理を誰が伝えたかは、多少の判断基準にはなりますが、基本的に人物信仰とは無縁です。
 権力の道具と化した現在の「キリスト教」など、「仏教」と同じく「ニセモノ」であることくらい分りきっています。
しかし、それにも拘らず、聖書に垣間見えるその「教え」の内容から見て、アミがいう「愛の伝道者」が実在したことは確実だと思われます。
 この問題に、自分なりにハッキリした決論を出しておくため、ナザレのイエスについて、少し調べてみました。(これも霊学の一部です)
先ずは、キリスト教を徹底的に批判したシルバー・バーチの霊言からです。
 尚、Wikipedia によれば、イエスという名は当時珍しくなく、出身地(この場合はナザレ)を含めた呼び方で区別されていたといいます。
また、イエスの誕生については、、「マルコ」、「マタイ」、「ルカ」、「ヨハネ」の四福音書で記述内容に相違が見られるとかで、冒頭の主張を裏付けているとも言えます。


古代霊は語る」シルバー・バーチの霊訓より 近藤千雄・訳編 (潮文社)
第九章 真理の理解を妨げるもの -宗教的偏見-
http://kokorodou.p-kit.com/page234212.html#link9

英国国教会の流れを汲むメソジスト派の青年牧師とシルバー・バーチの問答 
 〔抜粋〕

牧師: 「キリスト教への信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが」

バーチ: 「主よ、主よと、何かと言うと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行ないです。それが全てです。口にする言葉や、心に信じることではありません。
 頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰と言うものを持たなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇に居る人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人が、イエスは神の分霊なのかと問います。それに対してこう答えます。

バーチ: 「イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったと言うことです。
当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。いや今なお十字架にかけ続けております。
イエスだけでなくすべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師: 「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それ程の人物が嘘をつく筈がありません。
キリストは言いました。“私と父は一つである。私を見たものは父を見たのである”と。これはすなわちキリストが神であることを述べたのではないでしょうか」

バーチ: 「もう一度聖書を読み返してご覧なさい。“父は私より偉大である”と言っていませんか」

牧師: 「言っております」

バーチ: 「また“天に在します吾等が父に祈れ”とも言っております。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が“天に在します吾等が父”であるわけがないでしょう。“私に祈れ”とは言っておりません。“父に祈れ”と言ったのです」

牧師: 「キリストは“あなた達の神”と“私の神”と言う言い方をしています。“私達の神”とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

バーチ: 「“あなた達の神と私”とは言っておりません。“あなた達は私より大きい仕事をするであろう”とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせる様な解釈をなさらないことです。
 霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であると言うことが宇宙の全ての謎を解くカギです。イエスが譬え話を多用したのはその為です」

牧師: 「神は地上人類を愛するが故に息子を授けられたのです」

バーチ: 「イエスはそんな事を言っておりません。イエスの死後何年もたってから二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師: 「ニケーア会議?」

バーチ: 「西暦三二五年に開かれています」

牧師: 「でも私が引用した言葉はそれ以前からあるヨハネの福音書に出ていました」

バーチ: 「どうしてそれが分かります?」

牧師: 「いや、歴史にそう書いてあります」

バーチ: 「どの歴史ですか」

牧師: 「どれだかは知りません」

バーチ: 「ご存じの筈がありません。一体聖書が書かれる、その元となった書物は何処にあるとお考えですか」

牧師: 「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

バーチ: 「いや、それよりもっと前の話です」

牧師: 「聖書は西暦九十年に完成しました」

バーチ: 「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師: 「いろんな文書があります。例えば・・・」と言って一つだけ挙げます。

バーチ: 「それは原典の写しです。原典は何処にありますか」

 牧師がこれに応えきれずにいると・・・

バーチ: 「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外へ出されたことが無いのです。あなた方がバイブル(聖書)と呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しのそのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。
 初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。
ところが、何時に成っても再臨しないので、ついに諦めて記録を辿りながら書きました。
イエス曰く・・・と書いてあっても、じっさいに言ったかどうかは書いた本人も確かではなかったのです」

牧師: 「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが」

バーチ: 「私は何もそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。私はただ聖書に書いてあることの一字一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。
聖書に出てくる事象には、イエスが生れる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

 こうした対話から話題は苦難の意義、神の摂理、と進み、その間に細かい問題も入りますが、それらは既に前章までの紹介したことばかりなので割愛します。ともかくここで第一回の論争が終り、何日か後に再びその牧師が出席して再び論争が始まります。

 最初の質問は、地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能か否か、全ての人間を愛することが出来るか否かと言った、いかにも聖職者らしいものでした。シルバーバーチは答えます。

バーチ: 「其れは不可能なことです。が、そうした努力をしなくてはいけません。努力することそのことが、性格の形成に役立つのです。
怒ることなく、辛く当たることなく腹を立てる事も無いようでは、最早人間でないことに成ります。人間は霊的に成長する事を目的としてこの世に生れて来るのです。成長又成長と、何時まで経っても成長の連続です。それはこちらへ来ても同じです」

牧師: 「イエスは“天の父が完全である如く汝も完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

バーチ: 「だから完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活における最高の理想なのです。即ち内部に宿る神性を開発することです」

牧師: 「私が引用した言葉はマタイ伝第五章の終りに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っているのです。
また“ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり”と言っています。
 神は全人類を愛して下さる。だから我々も全ての人間を愛すべきだと言うことなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

 この質問にシルバーバーチが呆れたように、あるいは感心したような口調で、少し皮肉を込めてこう言います。

バーチ: 「あなたは全世界の人間をイエスのような人間にしようとなさるんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な地上生活を送ったとお考えですか」

牧師: 「そう考えます。完全な生活を送ったと思います」

バーチ: 「一度も腹を立てたことが無いとお考えですか」

牧師: 「当時行なわれていたことを不快に思われたことはあると思います」

バーチ: 「腹を立てたことは一度も無いとお考えですか」

牧師: 「腹を立てる事はいけないと説かれている、それと同じ意味で腹を立てたことはないと思います」
「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化出来るかどうかを聞いているのではありません。正当化する事なら、あなた方はどんなことでも正当化なさるんだから・・・」
 
 ここで列席者の一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追出した時の話を持出します。

バーチ: 「私が言わんとしたのはそのことです。あの時イエスは教会堂と言う神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。鞭を持って追払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。
怒ると言う事は人間的感情です。私が言わんとするのは、イエスも人間的感情を具えていたと言うことです。
 イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスも又一個の人間であった・・・ただ普通の人より神の心を多く体現した人だった、と言う風に考えることが大切です。ありもしないことを無理にこじつけようとするのは良くありません。分りましたか」

牧師: 「分りました」

バーチ: 「誰の手も届かない処へ祭り上げたらイエス様が喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり自分達と同じ人間だったと見る方がよほど喜ばれる筈です。自分だけ超然とした位置に留まることをイエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。
 一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスに出来る事は誰にも出来ることばかりなのです。誰もついて行けないようだったら、折角地上に降りたことが無駄だったことになります」


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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