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自分の物差で人を測らない

 霊的真理は本来、神に由来するものであり、自分の魂が知っています。理屈ではありません。しかしそれは心の奥深くに隠され、長い輪廻転生による経験の中で、少しづつ明らかになって行きます。
全ての人が、異なる魂の履歴を持つが故に、真理に対して自分と全く同じ理解をする人は、この世に一人も存在しません。
 50年前、40年前、30年前・・・に、自分が何を信じていたかを考えれば解ります。
今の自分の目から見て、他人がどんなに愚かしく、もどかしく見えようとも、それを怒り、非難、攻撃等することは出来ません。
ただ、今現在、人からどう言われようと、自分が理解し信じている真理を語ることが出来るだけです。それで同意してくれる人もいるし、否定する人もいます。それで良いではないですか。
 長い目で見れば、時間と魂の成長が全てを解決します。
 

悪と思ってゐることに善が沢山あるのざぞ。人裁くのは神裁くことざぞ。
世が愈々のとことんとなったから、今に大神様迄悪く申すもの出て来るぞ

(ひふみ神示 第六巻 日月の巻 第36帖)


宇宙の本質を語る宇宙人「オレンジャー」からのメッセージ
 バランスのものさし       2014-07ー02
http://ameblo.jp/oranger13/entry-11887593634.html

 俺はオレンジャー!
今日はバランスの「ものさし」について少し話をしよう。
人は其々自分にとってのバランスを図る為のものさしを持っている。
そのものさしは小さな頃から色々な人によって培われて来た、君の価値観そのものだ。
そのものさしは人によってその尺度も長さも異なる。
だからそのものさしで人を測る事は出来ない。
 君達が勘違いするのは、そのものさしが万能だと思い込んでしまう事だ。
そのものさしは君達の視点では有効だが、いざ他人との間で何かを測る場合には別のものさしが必要だという事を忘れてはならない。
 人に自分のものさしを押し付ける事も、他人のものさしで評価される事も君達にとっては苦痛でしかない。
両方のものさしから、共通のものさしを作るその努力が必要だ。
それが世界全体で機能する時、世界平和も現実になるだろう。
 今日はこんなところだ。 じゃ!


「自由人の カルマ・ヨガ ノート」
これから起こると思うこと…
http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-381.html

〔前段省略〕
 この「二極化」の動きとどう向き合っていくかは、これからのスピリチュアルにおいて、けっこうウエートの高いテーマになっていくはずだと思う。
何しろ、ワンネスや意識の目覚めとは逆方向の動きに、自分自身が内的にどう向き合っていくかは――、純粋にスピリチュアルを志向すること以上に、難しいテーマと言えるでしょう。
 たぶんそれについての考え方は、単に「こうするべき」という一律パターンの答えでは済まないはずだ。
ひとりの中にも、いわば「多面的な向き合い方のスタイル」が求められると思う。
 で、ここからが本題のようになるけど――、
このブログ(パソコン画面)の右のほうにも出ているように、これまで読んだ本の中で印象に残った言葉を、ツイッターで日々紹介している。
その過去のぶんをパラパラと見ながら、「今後はこのような向き合い方が大事だろうな」と思う言葉を、いくつかピックアップしてみました。
 スピリチュアルにおける原則的テーマとまでは言えないけれど、知らないうちに道からそれて行ってしまわないために、こうした観点がこれからとても強く求められていくのではないかと思う。
 まずは、今後の「二極化」というプロセスの中で大事になっていくポイントのひとつが――、信念や行動を異にする人々に対して、「自分の価値尺度を用いて裁かない」ということだろう。その点を言い表しているのが、たとえばこんな一文だ――。

他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。あなたは、自分が何者であるかを決めるべきであって、他の誰かが何者であるのか、何者でないかを判定する必要はない。(ニール・D・ウォルシュ)

自分の道に確信を抱くために、他人の道が誤っていることを証明する必要などない。そのようなことをする人は、自分自身の歩みに自信が持てない人なのだ。(パウロ・コエーリョ)

 さらには、これはとても難しいことだし、このような考え方そのものがどうかしていると言う人もいるだろうけれど――、たとえ相手の信念や行いが「誤ったもの」である場合でも、そのことを糾弾したりせずに、必要なプロセスであると認識するということだ。
 誤った行為によってしか学べないテーマや、解消できない人類の潜在エネルギーというのもあるのだろう…。

人間の文明の方向性は、はるか昔から導かれてきた。歴史をふり返れば、人間は数えきれないほど間違いを犯してきたように見える。しかし、狂気の中にも道筋はある。私たちは、学ぶために間違う。自分で選んで間違ったときしか、それに向き合って向上しようとはしないのだから。(ボブ・フィックス)

人は道を踏み外すことがあるが、道を踏み外すことで何かを学ぶ。後に、道を踏み外したことを幸せに思うだろう。なぜならば、世の中には道を踏み外すことによってしか学べないことがたくさんあるからだ(OSHO)

 また、そうした異なる信念や誤った行動を目にしたとき、私たちの心では「怒り」の感情反応がわき起こることもある。
でも怒りというのは、「相手の問題」を指摘しているようでいて、その本当の目的は「自らの内の問題」を照らし出すことにある。

怒りを手放すのは難しい。自分の正直さと名誉がその怒りにかかっていて、試されているように感じるからだ。人間社会という大いなる学校での唯一のテストは、怒りを手放して愛の受容を学んでいるかどうかだ。愛は永遠であり、怒りは一時的だ。(ブライアン・L・ワイス)

あなたの怒りに責任がある他者は、誰もいない。その怒りに対する責任は、あなた自身にある。しかし多くの人は「他者が自分に対して責任があるのだ」と、マインドに深く刻み込まれてしまっている。(レナード・ジェイコブソン)

 悲しいことに世の中には、「怒りを覚えずにはいられない非道な出来事」が実際に数えきれないほど多く起こっている。とくに紛争地域などではなおさらのことで、カメラがとらえて報道されているのは、ほんのごくごく一部だけだろう。

 しかし、そうした世界の現実が厳然と存在する中にあっても、怒りの感情そのものは本当に個人の内側の問題であって――、外側の社会の問題解決にあたっては、「怒り」とはまったく違うところから取り組んでいく必要があるはずだ。
 怒りが、本当の平和を実現していくことは、まずあり得ないのだから…。

 「二極化」のプロセスの中で、ある意味で私たちは「試されている」とも言えると思う…。
周りの状況がどんな方向に動いていっても、自らの「内なる平和」を本当に大切に守ろうとしているのかどうか、そしてその思いを外側の世界へと発展させようとしているのかどうか――。
この点で、スピリチュアル分野でしょっちゅう言われる「自分の内側の状態が、世界の現実を作り出している」という見方は、やはり大事だろうと思う。

「真の平和」というのは、私たちの魂の内に生まれる。他者との間や、あるいは部族間の平和というのは、「真の平和」の似姿にすぎない。まず「真実の平和」を知っておかない限り、ほかの平和などとうてい実現しないことを、何よりも理解しなくてはならない。(アメリカ先住民族の言葉)

もし私が幸せなら、宇宙も幸せです。私が自分を愛していれば、他の皆も私を愛するでしょう。私が平和なら、すべての創造物が平和なのです。(アニータ・ムアジャーニ)

 真理というのは、とても「論拠に乏しい」ものだといえる…。きっと宇宙の意図として、わざとそういう性質になっているのだろうと思う。
私たちがこれからはっきりと問われていくことは――、根拠や実感もないような状況にあっても、それでもなお他者のことを信じるかどうか、自分のことを信じるかどうか、宇宙のプロセスを信じるかどうか、ということなのでしょう。

あなたには「信じる心」が授けられています。たとえ誰かがあなたを傷つけたとしても、たとえあなたが大きな間違いを犯したとしても――、決して他人や自分を見放すことのないように、あなたには他人や自分を「信じる心」があるのです。(シャーリーン・コスタンゾ)

◇ 結びのヒーリング・ミュージックは、Aetherium「Beacon of Light



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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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