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関が原以後の黒田如水

  黒田官兵衛孝高(号 如水)
 黒田孝高

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も次回で終りですが、関が原の合戦後、官兵衛がどうなったか、少し気になって調べて見ました。(Wikipedia 黒田孝高 より)
 意外だったのは官兵衛が最後まで熱心なクリスチャンだったことで、もしかしたらイエズス会のエージェントだった可能性があります。
であれば、下記のように切支丹や宣教師達を嫌い、官兵衛に大禄を与えなかった秀吉や、関が原の戦で官兵衛に付け入る隙を与えなかった嫡子長政と家康の処置が正しかったことになります。
 因みに、印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあるが、その時、秀吉は機嫌を悪くしてこう言ったそうです。(Wikipedia)

 「汝(孝高)は彼等(パアデレ達)を愛護し、(且つ)切支丹なるが故に予(余)が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。先の戦(九州平定時)に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時パアデレ及びイルマン(パードレの補佐役)に対する不快から、その後、豊前国の大部分と王(国主)の名称しか与えなかった事を」


関が原の戦の前後
 (註: 以下に括弧付きで日付が二つある場合は旧暦と新暦の併記)
 慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。
6月6日、黒田長政は家康の養女(保科正直娘・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。
7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが勃発した。
長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

 中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として中津城の留守居を務める密約を結び行動した。

石田三成の挙兵の知せを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞及んで集まった9000人ほどの速成軍を作り上げた。
 9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。
 城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。
それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

 道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。
母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。(石垣原の戦い

 9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。
その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛の安岐城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)を次々と陥して行った。
 国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼沈めている。
 10月14日、如水は兵5000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。
鍋島直茂と鍋島勝茂が32000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。
 10月16日、柳川の支城である海津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。
 そして11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍した時、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した

晩年と葬儀
 関ヶ原の合戦の後、徳川家康は先に嫡子、長政に勲功として筑前名島(福岡)52万3000石への加増移封をした後、井伊直政など徳川譜代の家臣や藤堂高虎の勧めもあり家康は、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った
 晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた太宰府天満宮内に草庵などを構えている。
また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津有馬温泉に、療養滞在している。

 慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。59歳。
辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。
 死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文及びロザリオを持って来るよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。
自分の死骸を博多の神父の所へ持運ぶこと、息子の長政が領内に於いて神父達に好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てることである。
 また、(嫡子長政に有能な家臣を残すために)殉死を禁止している。

 4月のある夜、午後10半頃、博多の教会の宣教師達は如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。
主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政が付添った。
如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士達は白衣を着ていた。
 墓穴は人が200人も入るほどの大きなもので、その中に着いた後、宣教師達は儀式を行い、それから如水を埋葬した。
同じ夜、長政は宣教師の許を訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀も行なっている。

逸話
 関ヶ原の戦いの後、「家康は、我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ、と三度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた(何故空いた手で刺さなかった)?」と叱責した。
野心家ぶりを表す話だが、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。
 但し、慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何も出来なかった」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのも確かである


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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