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孤独と孤高

 昔、会社に入りたての頃、ある先輩からこんなことを言われました。
「お前は付合いが悪いのではない。付合いがないのだ!」
そうかも知れません。そのくせ、学生時代は寮生活、大学院時代は下宿生活をし、会社に入ってからも自分のマンションを持つまでは会社の寮にいて格別、抵抗は感じませんでした。
 60歳で繰り上げ年金生活に入るまで、ずーっと何らかの組織集団に属していたのです。
会社の偉い先輩も「人間嫌いではなさそうだ」と言っていました。
結婚もせず、一人暮しで歳を取っても「孤独」を感じたことはありません。
人との付合いは正直で親切で誠実ですが、過度に深入りすることはなく、「淡きこと水の如し」です。
誰も信用していない(気を許さない)ようなところもありますし、恋人や友達や仲間のような、めんどくさいものを欲しいとも思いません。こういうのを何と言うのでしょうか。
 最近、「zeraniumのブログ」で見掛けた OSHO の下記講話、少し、饒舌でしっくり来ない箇所もありますが、何ほどかは近いのかな~と思います。

  OSHO
 osho.jpg
 画像転載元: (http://mintmk.blog.fc2.com/blog-entry-164.html


「zeraniumのブログ」  『Joy(喜び)』 OSHO (Kadokawa Shoten)
 人に利用され、道具になるためにここにいる人など誰もいない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-c2ad.html
〔抜粋〕

Q: 人は他人との人間関係に入る前に、まず最初に自分自身の孤独と友達になることが必要でしょうか?

A: その通りだ。あなたは自分の孤独と友達にならなければならない。
そうすることによって、「孤独」は「孤高」に変容する。
その時初めて、あなたは自らと深い豊かな関係に入ることが出来る。
その時初めて、あなたは自らの愛に入ることが出来る。

 孤独と孤高は違う。
辞書にどのように書かれていようとも、孤独とは心のネガティブな状態を現し、一方孤高はポジティブだ。
 孤独とは常に片側が欠けた寂しい心の状態であるのに対し、孤高とは自分の中で常に輝いている心の状態だ。
孤独は惨めだが、孤高は至福に満ちている。
孤独はいつも心配し、何かが足りなくて寂しがっており、何かを渇望し、何かを欲しがっている。
 しかし、孤高は深く満されており、外に行かず、非常に満足で幸せで、陽気だ。
孤独な時、あなたの中心はずれているが、孤高である時、あなたは自分の中心にいて足が地についている。
 孤高は美しい。それは優雅で、恩寵の中に在り、非常に満足している風情がある。
孤独は卑しく、そこには懇願、欲求以外の何ものも無い。そこには優雅さが無く、実際にそれは醜い。
孤独は依存的になるが、孤高はまったく独立的だ。その時人は恰も自分が全世界のようであり、全存在であるかのように感じる。

他人に利用されたり、人の道具になるためにここに居る人など誰もいない

 さて、あなたが孤独を感じている時、誰か他の人と関わりを結ぶと、あなたは相手を搾取するようになる。
相手の存在はあなたを満たすため、つまりあなたを満足させるための道具となる。
あなたは相手を利用するが、相手も利用されたことに気づいて不愉快になる。何故なら他人に利用されたり人の道具になるために、この世界に来た人は誰もいないからだ。
 人間は誰もが、彼自身、彼女自身、つまり自分自身になるという目的を持っている。
他人から物として利用されるために、ここに居る人など誰もいない。
誰もが王様のように大切に崇められたいからこそ、ここにいるのだ。
他人の期待を満たすためにここに居る人など誰もいない。
誰もが自分自身のためにここに居るのだ。

 だから、あなたが自らの孤独から逃れるために人間関係を結ぼうとする時、その関係は既に暗礁に乗上げている。
つまりその関係が始まる前から、すでにそうなのだ。誕生の前から子供は既に死んでいる。その関係はあなたにとって、更なる惨めさを作り出すだろう。

人は自分自身の反映を外に見付ける

 そして、覚えて置きなさい。
あなたが自らの孤独から逃れるために誰かと関わりを持つ時、あなたと同じ状態にある人と関わりが出来る。
何故なら、孤高に生きている女や男達は誰も、あなたに惹(ひ)かれることはないからだ。
 彼等はせいぜいあなたに同情を示すかも知れないが、あなたを愛する関係にはならない。
孤高に生きている人は、孤高にいる人にしか惹かれない。
だからあなたが孤独から行動する時、あなたは自分と同じタイプの人を見付ける。あなたは外に反映した自分自身の反映を見付けるのだ。

 だから覚えて置きなさい。
2人の惨めな人間が出会うと、惨めさは単に2人分を足しただけではなく、それは数倍にもなる。
自分が1人で孤独を作り上げるよりもずっと多くの惨めさを、彼等は互いに作り出すのだ。

 まず、孤高になりなさい。
まず、自分を楽しみ、自分を愛し始めなさい。誰もあなたのところに来なくても、そんなことはどうでも良くなるほどに、自分を慈しみ、本当に幸福になりなさい。あなたが満たされて溢れ出すほどに。
もしあなたのドアを誰もノックしなくても、それで完全にOKだ。
誰かがやって来てドアをノックするのを、あなたは待ってはいない。

 あなたは常に自分自身という家にいる。
もし誰かがやって来ればそれは良いことだし、誰も来なくても、それもまた美しくて良いことだ。
そうした後、人との関係に入りなさい。今やあなたはマスターのように行動し、それは物乞いをする乞食のようにではない。

 孤高に生きている人は、孤高の中で美しく生きている人に常に惹き付けられる。
何故なら、同じものだけが引き合うからだ。幸福とは単なる足し算ではなく、掛け算になり、それは大きな祝福の現われとなる。
彼等は互いに利用し合うことなく、搾取しない。むしろ彼等は一つになり、彼等の周りにあるもの全てを楽しむ。

自分自身に幸せでいるなら、幸福は自然に起きて来る

 2人の孤独な人間は、常に互いを見る。
彼等は何時も相手を利用し、相手を通して自分が如何に幸せになれるかを探している。
孤独な人間はいつも互いに対抗し、対立する。
孤高を知っている2人はお互いに対立しない。彼等は互いに面と向い合わない。
 自分の中で深く満足している2人の人間は、互いを利用しようとは思わない。むしろ彼等は自分達が旅人であることを知っており、ゴールはずっと遠くにあることを知っている。
そして彼等の共通の目的が、彼等を密接に結び合せる。

 幸福・happiness という言葉はスカンジナビアの言葉 hap から来ている。起る・happening という言葉も同じルーツから来ている。
幸福は「起る」ものだ。あなたはそれを作り出すことも、命令することも、あなたの意志でそれを強要することも出来ない。
あなたに出来るのは、せいぜいそれを利用することが出来るだけだ。それは起る時に起る。

 自らの裡に喜びを持つ恋人達は、幸せを得ることが出来るが、彼等は幸せについて考えたり、それを見付けようとはしない。
だからそのためにイライラすることはない。何故ならそれは起る時に起るからだ。彼等は自然にその状況を作り出す。
何故ならあなたが自分自身でいることで幸せであるならば、あなたは既に幸せだし、相手も自分自身において幸せなら、互いの間にはより素晴らしい状況が出来て来る。

 そうした中で多くのことが起り、しかもそれは自然に起きて来る。
人は幸せになるために何かをする必要はない。人はただ流れに任せ、掴んでいる物を手放せば良いのだ。
 だからあなたの最初の質問のように、「人は他人との関わりに入る前に、まず自分自身の孤独を受入れるべきでしょうか?」に対する答えは、「全くその通り。そうあるべき」となる。そうでない時、それは全く愛とは言えないものだ。


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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