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人は必ず陰徳を積むべし

 紀野一義氏の著書は若いころに読んだことがあります。
今でもその一部が脳裏に残っているほど、鮮烈な印象を受けています。
ここに書いてあることは日月神示の訓えと全く同じですが、紀野氏が何故この真理を知っていたのか、不思議なことです。
 霊学とは「霊的真理の学問」であって、特定の個人や宗教や教典に関係なく、至るところに宝石のように転がっているものです。その価値が解る者が私の仲間です。
 因みに、ここに書いてある「良い事をしたという格別な思い入れ」がない境地に達した人は、その行為を人に知られようと知られまいと関係ないのではないか、と今は思っています。


「なわ・ふみひとの抄録」
ある禅者の夜話』 紀野一義・著 (三笠書房)
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1310-30.html

人は必ず陰徳を積むべし

 「人は必ず陰徳を修すべし」、人は必ず人に知られないところで徳を積むべきである。
どんな良いことをしても、それを人に知られるようにやったら、それは徳にはならぬ、というのである。
人を助けるのでも、わざわざそのことが相手に分るようにして人を助けるのは陰徳とは言わない。
 どういうところから、こういうことが言われるようになったか、わたしは知らぬが、しかし、徳を積むということは、剃刀の刃のようなものなのである。或いは両刃の剣のようなものである。
それは良いことには相違ないのであるけれども、人間というものは、良いことと、悪いことには、必ず執着が付き纏うものであるから、良いことをすれば、良いことをしたという執念が付き纏うわけである。
 同じように、悪いことをすれば、悪いことをしたという、執念が付き纏う。
悪いことをしたなという執念が起る方は、これは未だ、悪いことをしてはいけないな、という方向に向いて来る可能性があるから、まだ良い。
ところが、良いことをした時に、自分は良いことをしたのだという自己満足を抱くと、これはなかなか抜けない。
良いことをしているのだから、どうしてそれを人に知られて悪いのか、と思うし、どうしたって人に知らせたいと思う。だから物騒なのである。

 仏教は、世間の宗教の中で、最も心理的な宗教だから、人間の心理の、深い文(あや)まで見ている。
だから、良いことをする時ほど用心せよというのが仏教の原則である。
良いことをする時は、恥かしいと思いながらせよという。それがないと、相手に負担を負わせることになる。それで陰徳ということを言うのである。
 今の人は、こういうやり方を好まない。無条件では動かない。
良いことをする時は、必ず人に良く分るように宣伝しながらやる。そういうのは陽徳というのであろう。陽徳は悪徳に繋がるということになる。陰徳でなくてはいけないのである。
 世の中には「ついている」という人がある。これは陰徳を積んでいるからだと、私は思う。
こっそり人に知られないところで、良いことをしている。それがちゃんと報いて来る。そこが人生というものの面白さなのである。
(カルマの法則を否定する人はそんなものは観念=思い込み、だと言っているのです。そう思いたければ思ったら良い。それが原因となって、それに相応しい結果が出る。それが因果律です)

見えざる世界の力

 陰徳を修すれば、見えないところでも力が加わり、見えるところでも利益があるものである。
だから、泥で出来た仏像、木に刻んだ仏像、土を捏ねて作った仏像等々、たとえ粗末な仏像であっても、仏像は無条件で敬わなくてはならぬ。
 お地蔵様でも、観音様でもあったら、そこを通る時に手を合せて通られると良い。時々は行って花や線香を手向けられると良い。
どんな粗末な仏像でも、仏像というものは信心によって作られたもの、拝まなくてはならぬのである。拝めば拝んだだけの功徳があると、今の私は信じている。
 首の取れた仏様、鼻の欠けた観音様など道の端に放ってあるものを供養しているうちに幸せになるということは、確かにあると思う。
そうすることによって、その人間の、心も体も、生活も変って行くのである。しかし、それだけではない。もっと別なものが働いている。
 それらの仏像には霊があると思う。お墓にも霊というものがある。だから、お墓の竿石は敷石などに使ってはいけないと言う。
お坊さまはよく「この墓石は霊を抜いてあるから、あとは何に使っても良い」などと言うけれども、そのお坊さまに徳が無かったら、抜いた心算でも抜けていないということになる。抜けていないものを敷石などに使うから怪異が起きるのである。
 人間の理性とか、合理的な判断とかで解決出来ないものが、この世には沢山あるのである。


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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