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秀吉の朝鮮出兵

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では朝鮮出兵は無謀という扱いですが、当時の日本の武力(世界最大級)を知ると、そうでもなかったと思えます。
実際の戦闘では日本勢が勝利しており、もし、秀吉の死去がなければ、或いは「本能寺の変」がなく信長が天下を統一していたら、日本が明国を滅ぼしていた可能性は大いにあります。

「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するがごとくあるべきものなり。ただに大明のみにあらず、いわんやまた天竺・南蛮(インド・ヨーロッパや西アジア)かくのごとくあるべし」(1592年、秀吉の毛利輝元宛書状)

 その前段階として先ず朝鮮を占領して後方基地化する必要がありました。
この朝鮮の役後、日本軍との戦いで消耗した明は、万里の長城を越えて侵攻して来た女真族に攻め滅ぼされ、清帝国が成立するのです。
明治時代になってからの日韓併合、日清戦争は、長い鎖国で中断されたこの戦役の再現のようにも見えます。


文禄・慶長の役」(Wikipedia)より

抜粋再編集

 15世紀中頃から日本は長い内戦状態(戦国時代)に在ったため、豊臣秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の軍隊がいる状態となっており、これは当時の地球では明と並び世界最大規模の軍隊であった
 1543年の鉄砲伝来で日本に持込まれた火縄銃(マスケット銃)は、その後直ぐに国産化され日本国内で大いに普及していた。
当時の貿易取引書からの推計で戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたとも言われ、当時世界最大の銃保有国となっていた
 尚、当時の日本の武士人口は200万人であるのに対して、イギリスの騎士人口は3万人であった。
当時の各国の人口は、1600年の時点で、日本は2,200万人、李氏朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人であったと推測されている。またイベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050万人、オランダは150万人、ブリテン諸島全体で625万人であった。(歴史上の推定地域人口 Wikipedia 参照)

 日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃と弓を組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。
火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足な弾丸重量二匁半(約9.4グラム)の安価で大量生産の出来る比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ七割をこの二匁半筒が占めた。

 戦争の初期、日本軍は500メートル以上の最大射程を持ち、弓矢よりも貫通力のある銃の集中使用によって優位に立った。
本来の日本の火縄銃の用法は、西洋における戦列歩兵による弾幕射撃とは異なり狙撃型のものであり、射撃開始距離も1町(約109メートル)程度であったとされるが、朝鮮においてはより遠距離からの射撃戦が行われる傾向にあり、遠距離射撃による精度の低下を補うために、一斉の集中射撃も行われた。
しかし、戦争の末期になると朝鮮と明も鹵獲(ろかく)した日本製火縄銃やそれを模造したものを採用して使用数を増やし対抗した。

 一方、朝鮮の歩兵は刀、槍、弓矢などの武器を装備していた。
主力武器は弓であったが、その最大射程は120メートル程度であり、日本の弓の140メートル余よりも短かった。
しかも、兵士が弓を効果的に使いこなすためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。
 このほか、フロイス日本史には「火薬鍋(パネーラ・デ・ポールヴォラ)(手榴弾のような兵器)」「鉄製の兜」「丈夫な皮製の防具」「銅製の小型砲」「矢をつめて発射する射石砲(ボンバルダ)」などの記述が見える。
朝鮮の騎兵は、対女真用に北方配備されており、乱戦用に殻竿(からさお)と槍を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。
朝鮮騎兵の戦闘としては、忠州の戦い・海汀倉の戦いがあるが、いずれも日本軍が勝利している。
 朝鮮水軍は、高麗時代から対倭寇を目的に整備され、訓練も行われており、旧式ながら火砲を多く装備していたため、戦役前半から日本軍をよく迎撃した。

 朝鮮水軍は板屋船(戦船)という日本の安宅船に相当する大型船を用いた。有名ではあるが実体不明の亀船も、この板屋船を改造したものといわれる。他に補助艦船として中型の挟船、小型の鮑作船がある。
 朝鮮水軍は火器や弓を使っての遠戦指向だったが、朝鮮の火砲は射程が64m〜160mと短く、朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から一方的に日本船を撃破出来た訳ではない。
 朝鮮水軍が兵数で圧倒的に有利であった閑山島海戦においても交戦距離は100mに満たない距離で戦われている。
また、朝鮮の火砲は、鉄弾、石弾を複数込めて散弾の形で使うこともあったが、基本的には火箭(火矢)を撃って敵船を焼き討ちすることを主眼としていた。

 また、明の歩兵は広大な帝国内における多様な戦闘を経験しているため、様々な武器を使用した。
飛び道具として火縄銃、弓、南蛮式火縄銃、小火砲、長柄武器として槍、三又、鉄棒、射手の護身用に片手刀、その他に大砲、煙幕弾、手投げ弾などである。
 しかし、明の火縄銃や南蛮式火縄銃は日本の物と比べ射程が短く威力も弱いためあまり役に立たなかった。
但し、明軍の防具は鉄製のため守備力があり、槍も日本刀も通じにくかった。
一方、懲毖録は碧蹄館の戦いにおいて切れ味の鈍く短い刀しか持たなかった明の北方騎兵が、3~4尺の刀を持つ日本軍の歩兵に人馬の区別なく斬り倒されたとも記録している。

 明は歩兵の他に対女真用に整備された騎兵部隊(馬軍)を大規模に戦闘に投入したが、戦果は得られなかった。朝鮮は山が多く、騎兵の突撃に適した平地が少ない上、日本の火縄銃の長射程に対して騎兵部隊は不利であったためである。
また、数万の軍馬を養うのに必要な草地も乏しく、度々馬疫が発生して多くの馬匹が斃れた。

 日本軍は文禄2年(1593年)1月、漢城(現在のソウル)郊外で大軍同士が激突する「碧蹄館の戦い」に勝利するも食料貯蔵庫を焼かれ、一旦休戦する。しかし、双方欺瞞の講和交渉が続いた後、当然の如く決裂する。
 豊臣秀吉は慶長4年(1599年)に大軍を再派遣して攻勢に出る計画を発表していた。
しかし秀吉は慶長3年(1598年)8月18日、62歳で死去。その後、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。

 9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路に分ち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。(三路の戦い
迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
 泗川の戦いでは島津軍7000が数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃。明軍で火薬の爆発事故や、島津軍の伏兵戦術などにより連合軍が混乱。島津軍が大勝した。
 順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するため、新たに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍も古今島まで退却した。(順天城の戦い)
以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。
 この三城同時攻撃では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達していた。
また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。
これにより、三路に分たれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという。

 蔚山、泗川、順天への同時攻勢を退けた日本軍であったが、8月に秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力をめぐる対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。
そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、日本軍は撤収を開始する。


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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