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ヴィセント ギリェム 「自尊心」(2)

ヴィセント ギリェム 『魂の法則』  より抜粋
http://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf

 「自尊心」(1)より続く

ギリェム: 進化に役立ててもらえるように、気位の高い人に簡潔に言えることはありますか。
イザヤ: 悲しみや虚しさを感じる時には、自分自身に閉じこもらないように。
感じさえしなければ苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧してはならない。
そうすればもっと苦しむことになるし、解消出来ない不毛な苦悩となるからだ。
 考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。
他者を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分の気持ちに従うこと。

人から傷付けられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化してはならない。
自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。

ギリェム: 人の意のままにならずに、他者を傷付けないようにするにはどうしたら良いのですか。

イザヤ: 相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人自身の我欲、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのかを知る必要がある。
 我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、相手の我欲のせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、その人が改善しなければならない。
他者のせいで苦しんでいると思っていても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。

ギリェム: でも、その人が変りたくなければ、どうしますか。

イザヤ: その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば本物ではなく、自由意志を侵害してしまうので相手に強要は出来ない。
そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではない。
だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分の感情や信念を曲げるべきではないのだ。

ギリェム: 例えば、ある人といざこざがある場合に、相手がその人自身のエゴで苦しんでいるのか、それとも僕の利己的な態度によって苦しんでいるのか、どうやって見分けられるのでしょうか。

イザヤ: 相手の立場になって、どう感じるだろうか、その状況でどうして欲しいのだろうか、と分析してごらん。
自分が発信者・執行者となって行なおうとしていた行為についての判断が、その行為の受手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利己心や不公正な部分があったということだ。
送り手としても受け手としても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。
 でも大抵のケースは様々だ。つまり、両者に利己的な部分があり、双方が自分のエゴを改めねばならないのだが、自我によるのでなければ確固とした態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。
 最終的には「自分にして欲しくないことを他者にしてはならない」と、「苦悩の原因であり意志の侵害だと分っていることを、他者が自分や自分の庇護下の者にしないように(心を)尽せ」という金言に要約出来るだろう。

ギリェム: よく理解出来るように、例を挙げて頂けますか。

イザヤ: よろしい、例を挙げよう。教育の一環として子供を叩く母親を想像してごらん。
子供に与える肉体的・精神的苦痛を考慮していない母親によると、それは子供を従わせる方法だそうだ。
 もし本当にその方針が正しいと信じているのなら、自分が夫に殴られることも問題なく容認出来るということで、彼女が子供に使ったのと同じ論拠を夫が持出して正当化しても承服出来ることだろう。
 だが誰でもそうだが叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、当然だが非常に苦痛なので、夫が殴り続けることには同意しないであろう。
 この母親は、夫に殴られて痛いのであれば、彼女がそうする時も子供は同じように痛いだろうと気づくべきだ。
そして現実から学ぶ気があれば、叩くことは苦痛を生み正当化出来ないので、それ自体が悪いことだ、という結論に達するであろう。

 この女性には、どんな解決策があるだろうか?
子供に対する暴力の行使を放棄するのだ。そうすることによって、自分自身のエゴを克服し、力づくで弱者の意志を曲げようと懸命になることもなく、同時に、自分の自由意志を踏みにじる暴力的で利己的な夫の支配から逃れることに力を尽せるのだ。
 攻撃する者がいじめる対象を失って苦しむのであれば、それは相手に苦しめられているのではなく、他者の意志を力ずくで曲げたいという我欲を放棄するのが嫌なだけなのだ。

ギリェム: 先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われましたが、誰かを愛すると、その人が幸せでいられるように、あらゆることで喜ばせてあげようとすることと矛盾しませんか?

イザヤ: 喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは大きな間違いで、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。
愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。
 喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。
と言うのは、誰かの機嫌を取る時に、手を差伸べる代りに弊害を与えてしまって、喜ばせたのは相手の我欲だけだった、ということもあるからだ。
 しかも、自分の自由を失って、相手の我欲に自分の意志を服従させて機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。

ギリェム: 手助けと機嫌取りとを、どう見分けるのですか。

 自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばすだけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。
真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決出来るように、支え励ましてあげて、前進出来るようにしてあげることだ。


ギリェム: 援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さいますか。

イザヤ: そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラスの二人の子供をイメージしてみよう。
二人ともずっと遊んでいたいし宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。
 一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に行くという羽目にならないように、自分が代りにやることにするが、その間、子供は楽しく遊んでいる。
もう一人のお父さんは、子供が暫らくの間遊びを止めなくてはならなくても、子供自身が宿題をするように一緒に座って手伝ってあげることにする。
 最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取ってはいるが、宿題は子供に課された状況であり、その子の学習に必要なものなので援助をしてはいない。
この父親は、息子が怠惰で依存的で我儘になり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を求めるようになることに加担してしまっているのだ。
 二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子が怒る可能性を冒しているので機嫌を取ってはいない。
だが、子供が学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子供を援助していることになる。

ギリェム: それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか。

イザヤ: いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、相手が独力で超えねばならない試練の肩代りをして魂の停滞に加担してしまう場合が良くないのだ。

ギリェム: 自尊心についてに戻りますが、自尊の段階を超えた魂は、どんな進歩を遂げたことになるのですか?

イザヤ:
・ 魂はもっと自信に満ち、自分の感情を自覚し、幸せに生きるためには気持ちに従って生きねばならないことを認識している。
・ 自分を在りのままに見せることを以前ほど恐れない。そのため、以前より打解け、明るく自然で、自由で感情の防壁が少ない。
・ 自分の内に籠らなくなり、感謝をされなくても気にしなくなる。
・ 他人に、より共感出来るようになる。
・ ご機嫌取りに過大な努力を払わない。つまり、人の思い通りにされることが少なくなり、簡単に言いなりにならないので恨みや怒りを覚えることも減る。
・ 愛しても見返りを期待しなくなる。
・ 心を開いて自分に向けられる他者の愛を感じ取り、心を許して自分の愛を他者に与える。
・ 否定的な状況にあまり影響されなくなり、以前より受容れることが出来る。
・ 肯定的なことをもっと楽しめるようになる。


ギリェム: 自尊から次の尊大(自負心)への移行を決定づけ、両者を別々の段階とするものは何ですか?

イザヤ: 自尊心の強い者は、愛を与え受け取る能力があるのに、傷つくのを恐れるがためにその両方を抑制し、自分の周りに無感情という鎧を作ってしまう。この無感情という鎧が気位なのだ
この鎧をほぼ完全に消滅出来ることが、次の段階への移行となる目印だ。


ギリェム:無条件の愛への道のりの最終工程に到着しつつあるようですね。

イザヤ: 未だそうではないのだ。
魂が自分の抑圧や恐れから充分に解放され、感謝されないなどの否定的な態度を受容出来るようになったとしても、その工程を完全に克服出来たことにはならない。
自尊心を乗越えた魂は、未だ自尊心が進化したもっと巧妙な自我の形態である尊大(自負心)を克服する必要がある。



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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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