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霊的に見た「赤ちゃん取り違え事件」

 最近、テレビで報道された「赤ちゃん取り違え事件」を霊的に見ると、全く違った側面が見えて来ます。
先ず、事件の概要をNHKニュースから見て置きましょう。

● 赤ちゃん取り違えで病院側に賠償命じる

 NHKニュース 11月26日 17時56分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131126/t10013354444000.html

 「60年前に生れた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めた上で、「経済的に恵まれた筈だったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡しました。

 この裁判は、東京・江戸川区の60歳の男性と実の兄弟等が起したもので、60年前の昭和28年に生れた病院で取り違えられ、別の人生を余儀なくされたとして病院を開設した東京・墨田区の社会福祉法人「賛育会」に賠償を求めていました。
 判決で東京地方裁判所の宮坂昌利裁判長は、DNA鑑定の結果から男性が赤ちゃんだった時に別の赤ちゃんと取り違えられたと認めました。
 その上で、「出生と略同時に生き別れた両親は既に死亡していて、本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい。
本来、経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えで電化製品もない貧しい家庭に育ち、働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」と指摘し、病院を開設した社会福祉法人に合せて3800万円を支払うよう命じました。
 判決によりますと、男性は同じ病院で自分の13分後に出生した別の赤ちゃんと何らかの理由で取り違えられたということです。
去年、実の兄弟が病院に残されていた記録を元に男性の所在を確認し、DNA鑑定を行なった結果、事実関係が明らかになったということです」

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 私がこの報道に違和感を覚えたのは、赤ちゃんの時に取り違えられて貧しい家庭環境に育って苦労したことが、不当で悪いことだという社会通念が容認出来なかったからです。
 私も、早くに父親を亡くし、高校、大学を奨学資金とアルバイトで卒業、やっとエリートコースに乗ったのも束の間、ある肉体的なハンデから霊的な世界に足を踏み入れ、糞汲みや土方もしながら霊学を学び続けて来た人間です。
 今では、何千万円、何億円を無償で譲渡したいとオファーされても、魅力的な女性を提供されても笑って首を横に振ります。(これが真実だということは神が知っています)
だから、なわさんが書いた以下の記事は誰よりも良く理解出来ます。
皆さんも、これをよく読んで考えて見て下さい。
 ここには、この事件を霊的に考えるすべてのヒントが含まれています。
例えば、この「取り違え」自体、二人の霊が生前に自ら選択した運命だったことが解ります。
 また、全体として、貧しい家に育った男性の方が良い人生を送っていますが、「取り違え」が発覚した時点で、もう一度、大きな試練に直面しています。
この方は、自分の人生を“悔やむ”のではなく、“感謝”しなければならないのに、思い掛けず大金を手にし、その上、もしかしたら遺産の一部を相続することによって、残りの人生を誤る可能性が高まっているからです。


〔なわ・ふみひとの抄録〕 より抜粋

● 人は人生の試練を選択して生れてくる  2008年2月26日(火)

『霊の書(上・下)』(アラン・カーデック・編/桑原啓善・訳/潮文社)
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki080226.html

 問答の質問者はアラン・カーデック、霊媒を介しての回答者は聖アウグスティヌス霊です。
内容はシルバー・バーチの霊訓と全く同じです。
 
・ 金持ちと貧乏の試練

―神はなぜ、ある者には富と力を、ある者には貧困を与えられたのでしょうか。
  それぞれの道で試練を受けるためです。しかも、その試練を選んだのは霊自身です。

―2つの試練のうち、恐ろしいのはどちらですか。
  どちらも同じように危険なものです。貧困は神の摂理を恨み、金持ちは万事に分を超えてしまいます。


―金持ちには悪への試練がたっぷりあるかも知れませんが、同時に善を為す手段も一杯あるのではないですか。
  それこそ、金持ちがやらないことです。金持ちは利己的で、高慢で、貪欲になりがちです。財が多ければ、その欲望もそれにつれて多くなります。彼らは満足することを知らないからです。


―神は何故、それほど価値があるとも見えない人達に富を与えたりなさるのですか。
  現在のことしか目が向かない人にとっては、富は恵みのように思えるでしょう。
しかし、富は貧困よりももっと危険な試練であることが多いのです。
  地上の不幸は、皆さんが自らの手で創り出した人為的な欠乏によるものです。
自らの欲望を抑制し、自分より富む人を羨望の目を持たずに見ることの出来る人は、地上において失望を味わうことはありません。最大の富者とは「最も欲しがらない者」です。
  みなさんは、恵まれた富者達を見てそれを羨ましく思います。
しかし、富者の多くを待ち受けているものが何かをみなさんは知っていますか。
もし彼らが利己的で、その富を自分の為だけに使うなら、彼らの前途には恐るべき逆転劇が待ち受けています。彼らはむしろ哀れむべき人なのです。
  神は時折、悪人に繁栄を許されます。しかし、その繁栄は羨ましく思うものではありません。何故なら、やがてその人は涙と歯ぎしりでそれを償うことになるからです。
もし正直な人なのに苦しむことがあるとすれば、それは試練です。
その人が勇敢にそれに耐えるならば、豊かな収穫を刈り取ることになるでしょう。

 次のイエスの言葉を思い出して下さい。
  「苦しむ人は幸いです。彼は慰めを受けるでしょう」


・ 運命

―人生には運命(あらかじめ定められている人生の出来事)がありますか。もしあるとすれば、自由意志との関係はどうなりますか。
  運命があるとすれば、再生の時にそれぞれの霊が担おうと決意した試練の結果だけです。その試練を選ぶことによって、彼は自分の運命をつくります。それは彼が自分をその状況に置きたいと考え、選択した結果です。
  ただし、これは肉体的試練についてだけのことです。精神的試練や誘惑という意味では、善悪何れを選ぶか、それに従うか拒否するか、ということについては選択の自由を残して置くのが通例だからです。
  その状況に直面して尻込みする人がいれば、善霊がやってきて助けますが、本人の意志の働きを侵す所まではしません。逆に悪霊すなわち未発達霊は、あれこれと不安を吹き込んで、本人を悩ませ脅かします。しかし、それでも本人の霊がどんな選択をするかという意志の自由は残されています。


中には自分の行為とは関係なく、運命に翻弄されるように見える人がいます。その場合、その不幸は宿命なのでしょうか。
  それは本人が霊界において自ら選択したために受けることになった試練でしょう。皆さんは自分達の失敗に過ぎない結果を運命としてしまうことがよくあります。

・ 試練の選択

―霊が再生に入る前に、次の人生で起こることを予見しますか。
  霊は独力で、やがて自分が受ける試練を選びます。霊の自由意志とは、実にこの「選択の自由」の中にあります。

―では、神が懲罰として人生の苦難を与える訳ではないのですか。
  何ごとも神の許可なしには生じません。何故なら、宇宙を支配する法則を定められたのは神であるからです。神は霊に選択の自由を授けるに当り、自分の行為とその結果に全責任を持つように委ねられました。
  人は何でも思いのままに出来ます。前途には正しい道が開かれており、同じように誤りへの道も開かれています。
しかし、もし彼が間違ったとしても、もう一度やり直すことも許されているのです。
 もし皆さんの身に危険が近づいたら、その危険を創ったのは皆さんでなく神です。
皆さんは、それが進歩の道だと見て自らその危険に身を曝すように選択しました。神は皆さんがそうすることを許し給うたのです。


―もし私達が自分の受ける試練を選ぶ自由を持つとするなら、地上生活で味わう苦難はすべて私達が予め選び、予想していたことなのですか。
  いや、すべてがその通りとは言えません。皆さんはこの世で起る事柄のすべてを、その細部に亘るまで選び、予見していた訳ではありません。
 皆さんは、どんな種類の試練を受けるかの選択をしただけです。その試練で生じた出来事は、皆さんが選んだ一般的な状況の結果であり、またその試練に対する皆さんの反応の結果です。
  例えば、ある霊が悪人達の中に生れることを選択するなら、彼は自分がどんな試みに遭うかは分りますが、それに対してどんな行為を行なうかについては分りません。そのような一つひとつの細かい行為は、彼の自由意志の働きの結果だからです。
  霊が一つの道を選べば、そのためにどんな種類の試練に遭うかは分ります。ですから大体の推移については理解出来ますが、具体的な出来事については、その時の状況や経緯で違って来ます。霊にとって前もって予見出来ることは、新しい人生の骨格だけで、彼の運命に決定的影響を与える事柄に限られます。


―霊が悪人達の中に生れることを選ぶ等ということがあり得るのですか。
  人はその求めている試練の性質に叶った環境に入ることが必要なのです。彼が是正したいと思っている欠点と、彼が選んで入った環境との間には、必ず相通じるものがあります。
例えば、もし彼が掠奪という本能と闘わねばならないとするなら、彼は山賊の群れの中に入る必要があるということです。

―では、もし地上に一人も悪人がいないとすれば、霊はある種の試練に必要な環境を発見出来ませんね。
  それが事実なら、もう何も言うことはないのではないでしょうか。これは高級霊の世界、悪の近寄り難い善霊のみ住む世界です。

―霊が完全な状態に到達するためには、あらゆる種類の試練を経験する必要があるのですか。高慢、嫉妬、貪欲、肉欲をそそるようなあらゆる環境を体験しなければならないのですか。
  いや、そんなことはありません。多くの試練を受ける必要のない道を通る霊が沢山います。しかし、もし道を誤ると、その道の持つあらゆる危険に身を曝すことになります。
例えば、ある霊が富を求め、それが認められるかも知れません。その場合に、彼はその人格に応じて、貪欲な人物、道楽者、利己主義者、或いは寛大大度な人物となり、財産を活用するか、または浪費するかです。
しかし、富を持ったからといって、すべての人が悪となり、鞭打たれることになるとは限りません。


―霊が自分が受ける試練を決めるとき、決め手になるのは何ですか。
  それは自己の欠陥を償うのに役立つもの、同時に、より早く進歩させてくれるもの、そういう試練を選びます。その目的のために、ある霊は貧困の苦を自己に課して、それに耐える勇気を養おうとします。
またある霊は、財産や権力の試練で抵抗力の訓練をしようと望みます。
それは、財産や権力を持てばそれを悪用したり、またそれがあるために悪感情を持ったりするので、更に危険性の多い道なのです。
 またある霊は、悪い環境と闘う運命を選んで、自己の善意を養って行こうと志します。


―最も苦痛の少ない試練を選ぶのが当り前だと思えますが‥‥。
  皆さんの立場からすればそう思えるでしょうが、霊の立場からすれば違います。人が物質から解放されると、そういう考えは無くなって行きます。

● なわ・ふみひとのコメント

  私たちの魂の本籍地は霊界で、波動の粗いこの地上界は一時的に住民登録をして住み着いている魂の修業の場です。私たちはこの地上界に何度も生れ変って来て、その都度色々な人生を体験し、魂を磨いている―というのが、これまでご紹介して来た様々な霊界通信による結論でした。
  ですから、人生では魂を磨くための様々な“試練”に遭遇することに意味があるということです。しかも、その“試練”の内容は、私たちがこの地上に生れる前に、ある程度は自分で覚悟をして、というよりむしろその“試練”をあえて選択して生れて来るというのが実情のようです。
  もちろん、“試練”というのは必ずしも人生で苦労をすることとは限らないのです。
美貌と健康を身につけて生れて来て、しかも大金持ちで生活にも何一つ不自由しないという人生を選択する霊があるかも知れません。そのような物質的に恵まれた環境に於いて、私達が更なる富や権力、あるいは異性に対する性的欲望などの様々な誘惑に惑わされることなく謙虚に正しく生きることが出来るかどうかも、魂を磨く上でのひとつの“試練”と見ることが出来ます。
  イエスもお釈迦様も、悟りを開く過程では様々な誘惑に遭って、それを振り払うという経験をしたと伝えられています。私流に言えば、この人生は様々な誘惑の坩堝(るつぼ)だと言うことが出来ます。「人生を楽しく優雅に過したい」という欲望は、私達の心に様々な誘惑を齎します。そして、今日ではその誘惑の最たるものは“お金”です。今わが国でも「お金さえあれば、すべての欲望が満される」という拝金主義の風潮が広がっています。
  そのお金の誘惑に負ける人、或いはお金がないために犯罪を始めとする悪の誘惑に負ける人、―何れも「お金の力に支配されている」という意味で「拝金主義者」と呼ぶことが出来ます。お金が人々の欲望の象徴として世の中を牛耳るようになっている今日の社会は、当(まさ)に終末(世の終り)の到来と見るべきでしょう。
  私達が人生に於ける試練によって魂を磨くというシナリオの最終段階を迎えているということです。これから集中的に表面化すると思われる終末の試練を乗り越えることの出来た人が「卒業組」、試練に負けてしまう人が「落第組」ということになります。
  私達がこれ迄に何度もこの地上に再生しているのであれば、一つひとつの再生にはちゃんとした目的があったと考えるべきです。単にこの地上の生活をエンジョイするためであれば、幼児からのひ弱な状態の経験を繰り返す必要はない筈だからです。
  今日では親による幼児虐待などの事件や、学校でも虐めによる自殺等が多発していて、“試練”の内容も危険極まるものになっています。(666註: 最近はストーカー殺人も目立ちます)
このような社会の質の低下こそ、まさに終末現象と見なければなりません。
要するに、人が「生れ変りを繰り返すことによって魂を磨いて行く」という身魂磨きのサイクルの終りに来ていることの現れなのです。
 


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私もこのニュースには違和感を感じていた一人です。
『霊の書(上・下)』読んだことが無かったので取り寄せてみることにしました。

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プロフィール

日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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