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百発百中だった大本の予言

 出口王仁三郎の霊界からの警告
          武田崇元 光文社 1989年刊

● 日清戦争を完全に予言

  明治26(1893)年夏のことである。
艮(うしとら)の金神が憑かった出口ナオは、とんでもないことをしゃべり出した。

「来年春から、唐(から)と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦。
神が陰から経綸いたしてあるぞよ。神が表にあらわれて手柄いたさすぞよ。
 露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ。あとは世界のおお戦で、これからだんだんわかりてくるぞよ」


 なぜ文字も読めず、ましてや政治・世界情勢のことなどとは全く無縁の彼女が、どうしてこんなことを言うのか、だれにも理解できなかった。

 予言どおり、日清戦争が日本の勝利に終ると、神はナオに次のように告げた。

「この戦いがおさまりたのではない。この戦いをひきつづけにいたしたら、日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにいたしたのでありたぞよ。
 こんどは露国からはじまりて、おお戦があると申してありたが、出口の口と手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」


 実際、軍事的にはさらに兵を進め、北京を攻略することも出来たかも知れない。
しかし、そうなると講和の相手をなくして、戦争は無制限デスマッチの泥沼になる。
 さらに、中国に様々な利権をもつ列強が乗り出してきて、収拾のつかない事態になり、まだ産業基盤も固まらない日本は、早くも亡国の危機に立たされたであろう。
 そのような事情をよく弁えていた伊藤博文らの政府首脳は、講和条約締結を急いだのである。
 しかし、民間では、福沢諭吉のような人物でさえ、「まだ講和の時期ではない。北京を占領して城下の誓いをさせるまで戦いをやめるな」と無責任なことを言っていた。
  これに比べて、丹波の文盲の老婆に憑かった〈神〉は、正しく情勢を把握していたし、さらに日清戦争の始まる前から、それが終ると、いずれロシアと一戦を交えねばならないことを予言し、また警告を繰り返すのであった。
 事実、日本は折角血を流して獲得した遼東半島を、ロシアの圧力で返還することを余儀なくされる。
いわゆる三国干渉であり、以後、日本では「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへの敵愾心が高まって行く。
 丁度この日清戦争と日露戦争の狭間で、出口王仁三郎はナオに出会うのである。
 
● 日露戦争の大予言

 王仁三郎は「大本」入りの翌明治34年の春、信者数名を連れて、静岡の長沢雄楯(かつたて)の許を訪れた。
長沢翁は王仁三郎を神主にして、神降しを行ない、日露関係の将来に関する神意を伺うことにした。
 既に、次の戦争はロシアからであることは、ナオの「お筆先」に出ていたが、そのはっきりとした時期は不明だった。
 二人は手を洗い、口を漱(すす)いで、月見里神社の社前で対座した。
王仁三郎の前には、天上から吊した鎮魂石がある。
厳粛の気が漲るうちに、長沢翁の吹く石笛の音がりょうりょうと尾を引く。
王仁三郎の身体がぴーんと反り返る。
 全くの神憑かり状態になった王仁三郎と、審神者(さにわしゃ)長沢の問答が始まった。

 「日露の戦いは御座いますか」
「あるぞよ」

 「今年で御座いましょうか」
「今年の8月‥‥それが延びたら明治37年の2月になる。
36年の7月ごろから戦の機運が濃くなるが、開戦は37年の2月じゃ


 「日本はこの戦いに勝てましょうか」
「勝つ。勝つが、多くのつわものの命が失われる」

 「平和はいつ来ましょうや」
「2年目の9月までには来る」

 「戦に勝って得られますものは?」
「シナの海岸のごく一部、朝鮮の全部、樺太の南半分を日本が受ける」
 
 長沢雄楯の回想によれば、この問答は約2時間に及び、ロシアの作戦計画から外交談判に至るまで、微に入り細に亘っていたという。

● 「世界に騒がしきことがはじまるぞよ」

「いますぐヨーロッパで大戦争が起る」


 大正3(1914)年5月、王仁三郎は、信者たちのいる公開の席上で静かにこう予言した。
6月28日、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。
 暗殺事件から1ヵ月後の8月には、第1次世界大戦が勃発。
不幸にして王仁三郎の予言は、またしても的中することになるのである。

「艮の金神があらわれると、世界に騒がしきことがはじまるぞよ」(お筆先)

 日本は日清戦争の僅か10年後に日露戦争を体験した。
そして、全てが予言どおり展開して来た。
だが王仁三郎は、その先もまたその先も知っていたのである。
 つまり、日清戦争も日露戦争も、

「水晶の世にいたすまでに、日本にも外国にも、はげしき事件わいてきて、いったんは、世界中の学者も、守護神も手のつけようがなきような事態が出来(しゅったい)いたす」(お筆先)

 そのほんの初発の事件に過ぎなかったのである。

● 「ドイツ皇帝が失脚し、その後あらたな大戦争が起こる」

 王仁三郎が大正6(1917)年11月、創刊まもない「神霊界」に発表した「いろは歌」及び「大本神歌」は、後に『瑞能神歌(みずのしんか)』という小冊子に纏められる。
 何れも、掛けことばや縁語などの修辞を巧みに駆使した五七調の長歌であるが、内容的には、その後の日本や世界の運命を、ずばり指摘した驚くべき予言詩であった。
 まだヨーロッパで戦火を交えていた最中に発表された、この予言時「いろは歌」の中で、王仁三郎は既に1年後のドイツ皇帝の失脚と革命、戦争の一旦の終結を予言している。
 しかし、この予言詩によれば、第一次世界大戦は終結するが、それは単に来るべき動乱の序曲にしか過ぎない。

「日清間の戦いは、演劇(しばい)に譬えて一番叟(いちばんそう)、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年にわたりし世界戦、竜虎相打つ戊(つちのえ)の、午(うま)の年より本舞台」(いろは歌)

 まだ戦争の終結しない中に、既に王仁三郎は「五年に亘りし世界戦」が翌年には終結することをはっきりと予言している。
さらに、この世界戦争はまだ序曲に過ぎない、と告知したのである。
 第一次世界大戦は1914年に始まり、足掛け5年に亘った。
大戦の終る大正8(1919)年は、干支でいうと戌午(つちのえうま)の年であり、この年から「竜虎相打つ」と形容されるような本舞台が始まるというのである。
この予言詩は、第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る、世界史の大きな動きを描き出したものであった。

● 東京は空襲をうけ死体で埋めつくされる

 昭和17年8月7日、王仁三郎は保釈され、7年間の投獄生活からようやく解放される。すでに王仁三郎は71歳であった。
  しかし、王仁三郎は亀岡の自宅中矢田農園に落ち着くや、訪れる信者たちに鋭い予言を次々に放った。

大本神諭に、“未(ひつじ)と申(さる)とが腹を減らして惨たらしい酉(とり)やいが始まるぞよ”とあるが、今年(昭和18年)」は未の年で、羊は下にいて草ばかり食う動物であるから、下級の国民が苦しむ。
 来年は申年で、猿は木に棲むから中流の人が苦しみ、国民の心が動揺してくる。
再来年は酉年で、いよいよ上流の人が困り、むごたらしい奪いあいがはじまる。大峠は3年の後だ」


 これらはすべて予言通りであった。
これらに先立って王仁三郎は信者たちに予言をもとにした教示を与えている。

「東京は空襲されるから疎開するように」

 というと、実際、翌19年11月からB29の東京空襲が始まり、東京の殆んどが荒地焦土と化してしまった。
死者は20万人を超え、隅田川などの大河川は死体で埋め尽された。

「九州は空襲」、「京都、金沢は空襲をうけない」

 と予言されたように、19年6月に北九州も大被害を受けている。
京都、金沢は彼の言う様にその被害を免れた。
 この頃は信者ばかりでなく、大本シンパの軍人や有識者も、頻繁に彼の許を訪れるようになる。
昭和19年には、山本英輔海軍大将の使いで、水野満年がやってくる。
水野は大石凝真素美(おおいしごりますみ)の高弟である。
霊眼によるアドバイスを求めてのことであった。
 困ったときの神頼みで、一部の軍人から、戦局を何とかしてくれというような話は随分あった。
「わしらをこんな目にあわしときよって、偉いやつが総出で謝罪にきよらんと助けたらんわい」というのが彼の返事であった。

「昭和19年は小磯がしうて米内なあ、そしていよいよ日の丸は鈴木野や」

 昭和19(1944)年、東条内閣は総辞職し、予言どおり小磯国昭陸軍大将を首相、米内光政海軍大将を副首相とする内閣ができる。
しかし、長続きせず、翌20年、鈴木貫太郎内閣に代る。

● 「広島は戦争末期に最大の被害を受け、火の海と化す」

 昭和19年、王仁三郎の口からは、まるで自動小銃の如く予言の飛礫(つぶて)が吐き出された。

「火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」

「新兵器の戦いや」

「東洋にひとつおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」


 さらに同年、広島から来た信者にはこう告げている。

「戦争は日本の負けだ。広島は最後にいちばんひどい目にあう。
それで戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」


「広島は戦争終末期に最大の被害をうけ、火の海と化す。‥‥そのあと水で洗われるんや。きれいにして貰えるのや」


 実際、広島は8月の被爆後、9月には2回にわたる大水害に襲われている。
この原爆に関してはすでに18年の段階で、「広島と長崎はだめだ」、と非常にストレートな言い方もしている。
 当時は、軍部でさえもほんの一握りの首脳部のみが「アメリカが新兵器を開発している」ことを漠然と知っていただけで、よもや「東洋が火の海となるような」爆弾であるとは考えてもいなかった。

● 「日本の敗戦後は、米ソの二大陣営が対立する」

  広島が人類史上初の核の洗礼を浴びた2日後、ソ連は抜き打ちとも言える対日参戦を行なった。
これに関しても既に昭和18年に、満州の部隊へ配置される信者子弟たちに対し、

「日本は負ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗が立つ」

 さらに長野の信者たちに対しても、

「20年8月15日に留意せよ」

 と予言し、翌19年の1月には、東満総省長になっていた大本信者の三谷清の許へ、

「いま日本は必死になって南のほうばかり見て戦っているが、不意に後ろから白猿に両目を掻きまわされる」

 という、王仁三郎の伝言が伝えられていた。
また同じ昭和19年に、

「昭和20年葉月(8月)半ば、世界平和の緒につく」

 と立て続けに終戦の予言を出している。
戦後の状況に関しては、既に昭和18年に、

「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立」

 という予言が見られる。

 歴史が王仁三郎の予言どおりに動いて来たのは、周知のとおりである。
しかし、終戦と同時に、王仁三郎はあまり予言めいたことを口にしなくなる。
 そして彼は、一種の芸術家のような平穏な暮らしに入り、とくに、書道、絵画、楽焼きに耽るようになる。
 それは、この激動の時代を体現した稀有の人物に許された最後の平穏な日々であった。


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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