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神国日本の点描(2)

 原発はなぜ日本にふさわしくないのか
     武田恒泰・著 小学館 2011年6月刊
 (http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1307-29.html

 〔なわ・ふみひとの抄録〕

● 若い女性職員の話


 今回の大震災で、明らかに、日本人は一つに団結した。
それまでは自分のことしか考えていなかった若者たちが、震災をきっかけに、自分は復興のために何ができるのかを、真剣に考え始めた。
我欲に満ちた人たちが、はたと「公」の心を取り戻したのは我が国の未来にとって大きな意義がある。
 この震災で最も私の心に残ったのは、メディアでも大きく報じられた宮城県南三陸町での出来事である。
先の大戦の末期に、樺太の真岡郵便電信局の女性電話交換手たちが、ソ連軍に真岡を侵攻され、郵便局の建物が被弾しながらも電話交換業務を続け、最後には青酸カリを飲んで集団自決した一件を彷彿とさせるものだった。(→「氷雪の門」)

 地震の直後、震源域に近い南三陸町の海岸には、十数メートルの大津波が追っていた。
南三陸町役場の防災対策庁舎では、危機管理課職員の遠藤未希さん(24歳)が、一人防災無線の前に残り、マイクにとりついて町民に避難を呼びかけていた。
 津波に慣れっこになっていた住民のなかには防災無線を聞いても逃げようとしない人も多かった。
遠藤さんの声は、壁のような津波が庁舎を直撃するその瞬間まで、町中に響いていたという。
 まだ夢も希望も大きな年頃である。どこかで切り上げ、逃げたところで誰も責めはしなかったろう。
しかし彼女は呼びかけをやめなかった。そして職責を最後まで果たした。
 その声を聞いて危うく難を逃れた住民がいた一方で、津波は庁舎を飲み込み、骨組みだけを残して、全てを押し流してしまった。
屋上に避難した職員は難を逃れたが、そこに遠藤さんの姿はなかったという。
 遠藤さんは地震から9ヵ月後の12月に結婚が決まっていた。
遠藤さんのご両親は、どれほど悲しい思いをしただろうか。
しかし、インタビューでは「娘の行動を褒めてあげたい」と語っていた。
究極の状況に接したとき、日本人は自分よりも他者を思いやる美しい行動を見せるものなのだ。
 本書執筆中、5月2日になって、遠藤さんのご遺体が確認されたとのニュースに接した。心からご冥福をお祈りする。

● 極限の状態でも譲り合う被災者たち

 私の身の回りでも、信じ難い話を聞いた。
金沢に住む私の友人は、震災直後にトラックを調達し、米などの支援物資を積んで被災地に向かった。
行政に預けるのではなく、自分たちの手で最も困っている避難所に物資を届けようとした。
 様々な情報を集め、宮城県石巻市のとある小学校に着いた。
そこで早速物資を降ろそうとすると、担当者が駆け寄ってきて「せっかく持ってきてくれてありがたいのですが、うちの避難所はまだ物資が足りているほうです。
もっと困っているところがあるから、そちらへ回してほしい」
 と言う。
 友人が「一部でも降ろしましょうか?」と聞き返すと、「うちは足りているから大丈夫。全部困っているところへ持っていってください」と言うのだそうだ。
そこで、より物資が不足していそうな避難所を教えてもらい、急いでトラックを向けた。
 その避難所にたどり着き、荷を降ろそうとすると、また担当者がやってきて「大変ありがたいが、うちは足りています。この先の避難所にはまだ物資が行っていないはずだから、ぜひそちらへ行ってほしい。きっと困っていると思います」と言う。
 一部でも置いていくと提案しても、やはり辞退されてしまう。
3ヵ所目でも、4ヵ所目でも同じことの繰り返しだったそうだ。
どこでも「足りている」と言われてしまう。
結局、11カ所もの避難所で、同じことを言われ続けたというのだ。
 ところが、12カ所目にして、ようやく本当に困窮している避難所にたどり着き、空腹にあえぐ避難住民に炊き出しをすることができた。
「あなたたちが来てくれなかったら、私たちは明日生きていたかどうかも分からない」と、涙声で拝まれたという。
 友人は、良いボランティアができたという思いで、金沢に帰り着いた。
ところが、帰宅後ふとテレビをつけると、避難所からの中継が流れていた。
「足りているから」と断った避難所がいくつか紹介されていて、どの避難所も物資が足りず、大変な苦労をしているという内容だったのだ。
 「足りている」と言っていた避難所は、せいぜい一日当たり一人おにぎり1、2個でやり過ごしていただけで、それが彼らの言う「足りている」状態だった。
本当は足りていなかったのである。
 奪い合えば足りなくなる、しかし、分け合えば余る。
頭で理解していても、究極の状態でこれを行動に移すのは難しい。
受け入れを辞退した11カ所の避難所のおかげて、最も困っていた12カ所目の避難所が助けられたことになる。
 物資などいくらあっても困りはしない。少しでも多く自分たちのところに置いておきたかったはずだ。
しかし、極限の状態でも譲り合うのが日本人の精神だったのだ。
 普段、モノに囲まれ豊かに生活をしている私たちには、日本人が本来持っている精神は廃れていっているように見えた。
しかし、この危機的な状況で、東北の被災地の人々は、美しい日本人の振る舞いを見せてくれた。

★ なわのひとくちコメント
そう遠くない将来に必ず訪れると思われる「終末の大峠」において、すべての日本人(だけでなく世界中の人々)が迎える極限的状況が、2011年3月11日、世界のひな型の国・日本の東北で起こったのです。
 私は、あの地震と津波、そして原発事故は、人工的に起こされたものだと確信していますが、その悲惨さは自然災害と変わりはありません。
あの震災で亡くなられた方の多くは、この本に出て来る遠藤未希さんのように、既に終末の「卒業試験」に合格された人たちだったと見るべきでしょう。
 また、残された人々も、救援物資を辞退し続けた11カ所の避難所の人たちのように、ずいぶんと身魂磨きができていて「我善し」を卒業した方が多かったように見受けられます。
 東北の人たちの中には古き善き日本人の原型があるように思えてなりません。 (なわ・ふみひと)


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Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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