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台湾で最も尊敬される日本人

 日本人には国の内外を問わず、こういう知られざる「義人」が(恐らく多数)存在します。
事情は、日本が統治した韓国でも同様だった筈です。真実を隠蔽し、日本人を貶める理不尽な中・韓の反日教育と、これに同調する日本国内左翼の罪は深い。

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画像転載元: (http://reader.roodo.com/kcn/archives/5973177.html


MAG2 ニュース
台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた
    2016年2月24日             Japan on the Globe
http://www.mag2.com/p/news/151062~/3)

 大正時代、台湾の人々の生活を豊かにしようと奮闘した日本人がいました。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、台湾に東洋一とも言われるダム建設をした日本人技師「八田與一(はった よいち)」の感動秘話が紹介されています。今も語り継がれる八田氏の人情味溢れる活躍ぶりは、台湾と日本の固い絆、そして日本人としての誇りを再確認させてくれます。

戦前の台湾で東洋一のダムを作った日本人

 台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分程行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、満々と水を湛えた湖水にはボートも浮ぶ観光地になっている。

 このダムを見下す北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、外代樹(とよき)之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下し、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、このダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。

 1996年、地元の農民達と日本人が集まって、墓前で50回目の慰霊祭を行なった。参加した「百年ダムを造った男」の著者・斉藤充功氏が、丁度ダム見学に来ていた女子高生2、3人に話を聞いてみると、こういう答えが返って来た。

 「学校の授業でダムを作ったのが日本人だということは聞いて知っていました。しかし何という日本人なのか先生も知らなかったので興味を持ってここに来ました。説明板を読んで八田與一技師ということが分りました。驚いたのはダムが出来たのが私のお爺さんの時代で、遠い昔に10年も掛けて八田技師はここに住み着いてダムを完成させたと書いてあります。日本人は凄いと思いました」

 八田與一の業績は、元台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事に要約している。

「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、恐らく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大圳(だいしゅう、大用水路)を大正9年から10年間掛けて造り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
 台湾南部の嘉義から台南迄広がる嘉南平野に素晴らしいダムと大小様々な給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人程の農家の暮しを豊かにした人です」

嘉南平野開発計画

 嘉南平野は香川県程の大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地である。また亜熱帯性気候で1年に2、3回もの収穫を期待出来る地域であったが、水利の便が問題だった。
 降水量こそ年間2000ミリを超える豊かさであったが、河川は中央山脈から海岸線迄一気に流れ落ちるために、雨期には手を付けられない程の暴れ川となり、乾期には川底も干上がる有様である。農業生産も天候任せで極めて不安定、低水準であった。

 台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この地を台湾の穀倉地帯に出来ると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げた。
 台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張巡らせるという壮大な計画だった。この計画には、地元嘉南の農民達も熱い期待を寄せ、出来る限りの経費と労力を自分達で負担すると迄書かれた嘆願書が何度となく、総督府に提出された。

 予算は総額4,200万円、これは当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠であった。内地も米騒動等で大変な時期だったが、1200万円を国庫補助し、残り3000万円を地元農民等利害関係者が負担することになった。

東洋一のダム

 八田が計画したダムは、満水時の貯水量1億5000万トン。これは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当する。東京都民の水瓶となっている広大な狭山湖を訪れたことのある人は多いだろうが、これは烏山頭ダムの数年後に完成し、その貯水量は1952万トン。烏山頭ダムは実にその7.5倍である。

 ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅33.3メートル、高さ51メートル。これを長さ1.35キロメートルに亘って、盛り土で造り上げる。土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法を我国で初めて採用する。

 烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘る。これで毎秒50トンの水を流し込む。当時のトンネルで最大のものは東海道線の熱海の丹那トンネルだったが、それよりも15センチ大きい規模だった。

 給排水路は総延長1万6000キロ、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。更に給水門、水路橋、鉄道橋等、200以上もの構造物を作る。

 八田は大正6(1917)年から3年間、現地調査と測量を行ない、大正9年9月1日から愈々工事を始めた。11年には当時のダム建設の先進国アメリカに7ヶ月出張して、米国の土木学会の権威と議論し、また最新鋭の土木機械を買集めた。

外人の鼻を明かせてみろ

 大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工事事務所の所長として、現場に住込んで指揮を執り始めた。当時、現場で働いていた李新福と言う人は次のように語っている。

 「とにかく気宇壮大な、当時では途轍もない大きな工事でした。それと、皆が一番驚いたのは、見たことも聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役だったことです。ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現場では蒸気の機関車に牽かれたエアーダンプカーに乗ったものです」

 スチームショベルは1掬い2立方メートルで、これは人間1人が2時間掛かって掘り出す土砂の量である。その外にも、蒸気機関車、エアーダンプカーなど、八田が買付けた機械は、
1000トンを超える。

 始めの内は、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、使い方が分らない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、現場の人間には一切、使い方を教えなかったと言う。八田は、「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明せてみろ」と口癖のように言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械が唸りをあげて、土砂を運ぶようになって行った。

現場には作業員やその家族2000人が住み着いた。学校や病院までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くまでこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたという。

「仲間を失った」

 12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガス爆発事故が起った。90メートル掘進んだ所で石油が噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して爆発したのである。日本人、台湾人合せて50余名の死者が出た。

 八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走した。八田が何時もの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田の言葉を押戴くように聞入り、嗚咽したと言う。八田の「仲間を失った」という悲し みが自然と伝わり、その心情が遺族の胸を打った。
 工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人達は、「八田與一は俺達の親父のようなものだ。俺達のために、台湾のために、命懸けで働いている親父がいるんだ。俺達だってへこたれるものか」と、逆に八田を励ました。

 八田は工事が終りに近付いた昭和5年3月、工事のために亡くなった人々とその遺族等134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混って刻まれている。こんな所にも、八田の分隔てのない仲間意識が窺われる。

ダム完成

 翌12年9月、関東大震災が起った。死者10万余、全壊家屋12万8000という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30%を復興支援の財政援助に申し出た。その結果、烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇せざるを得ない事態に追込まれた。

 3年間苦楽を共にして来た仲間を解雇することは、八田にとって身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探すために、総督府の伝手を辿ったり、業者の縁故を頼って奔走した。見付けた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して再雇用するという条件を付けたと言う。嘉南の人々に今も語り継がれているエピソードである。

 このような危機を乗越えて、工事が完成したのは、昭和5(1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い歳月が流れていた。1億5000万トンの水を入れるのに、直径9メートル近いトンネルでも、40日余り掛かった。

 5月10日から満々と水を湛えた烏山頭ダムの竣工を祝う祝賀会が3日間に亘って開かれた。地元民が招待客3000人を超えて集まったため、会場をもう1カ所増設して収容した。屋台や特設の芝居舞台が賑わい、花火が打上げられ、夜は提灯行列迄繰出された。

 アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。

農作物の増産

 祝賀会が終った5月15日、烏山頭ダムからの給水が始まった。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メートルの放水口6本から、ゴーという凄まじい音を立てて、水が流れ出して行く。そして精密な測量に基付いて、勾配1%と殆んど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れて行った。しかし15万ヘクタールの土地に張り巡らされた全長1万6000キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗る迄には3年掛かった。

 また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。

 計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年掛かった。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7000石が65万7,000石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に伸びた。地元農民の増収金額は年間2000万円以上に達し、彼等が負担した事業費2739万円の返済も容易であったろう。なお総督府の補助金は2674万円に上った。

八田夫妻の最期

 烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。台湾が更に発展して行くためには、現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市 内に作った。この学校は年々発展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出している。

 大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向った。灌漑の専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務だった。

 5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、遥か離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。7月16日、総督府葬を以って荼毘に付された。享年56。

 昭和20年、台北でも空襲が酷くなると、妻の外代樹は子供達と烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出立ちで、烏山頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹仲良く暮して下さい」という遺書が机の上に残されていた。享年45。

「偉いおじさん。台湾人の恩人」

 嘉南の農民達は、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されている。

 昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金属類供出が呼び掛けられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、地元民が隠して保管していたのが見付かった。蒋介石政権の元で、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であったが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置された。

 「百年ダムを造った男」の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した際に、近くの官田小学校にも取材に訪れた。ダムの工事中に作られ、八田の子供達も通った六甲尋常高等小学校がこの官田小学校の前身であった。

 教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田のことを教えているという。通訳を通じて、人懐こい子供達に聞いてみると、殆んどの子供達が八田のことを知っており、「偉いおじさん。台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。

 「日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つのは大変良いことだと思います。それと、八田技師は政治とは何の関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけのダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきですね」
 (文責:伊勢雅臣)


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日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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