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日月神示 1-13/2-4 「五十九の身魂」

元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、
この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、
これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。
この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ。

(ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第13帖)


今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。
人のようせん辛抱さして、生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみざから、みごと御用つとめ上げて呉れよ。
教会作るでないぞ、信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ。
この仕組知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ。

(ひふみ神示 第二巻 下つ巻 第四帖)


 上記二つの神示の中で使われている“この仕組”とは“一厘の仕組”のことだと思われます。 
“知らさなならず、知らしてならんし”とか、“世の元からの仕組”とか、“岩戸開く時”とかの表現は当に一厘の仕組にぴったり当てはまります。
一厘の仕組は、神に守られて世に出ることもなく黙々と身魂を磨いている五十九人がいれば成就するという神示でしょう。
だから、普通の宗教団体のように、教会も、信者も、勧誘も必要ないのです。
 このブログを含めた大本、日月の役割は、人類の三分の一を一度に改心させる「一厘の手立て」が発動された時の下準備と思われます。
愈々の時には、この五十九の身魂一厘の手立てに引き続いて物質界を瞬時に半霊半物質化するという恐ろしいこと(大手柄)をやってのけます。
元の神が乗り移った五十九の身魂は、もはや人間などではありません。
しかし、現状この身魂は何れも落ちぶれていて、外見上はとてもそんな大それた御役をする人には見えないようです。


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日月神示 1-2 他 「苦」関連

親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
(ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第2帖)


 このことを、なわ・ふみひと氏は、つぶや記「艱難(かんなん)汝を玉にす」の中で、次のように巧みに表現しています。

「ええもん食いたい、楽したい、ものはついでにゼニほしい、どこかにええ女(男)おらんかな」

 これが、苦に負けて落ちぶれ果てた神の子らの哀れな姿です。

苦労いたさねば誠分らんなり、人民と云ふ者は苦に弱いから、中々におかげのやり様ないぞよ、
(ひふみ神示 第二十二巻 アホバの巻 第9帖)


 人間は苦に弱い。これが今時の世相を理解する鍵の一つです。

・ 苦に弱いから、禊ぎ祓いの神「艮の金神(うしとらのこんじん)」を祟り神と恐れる。
・ 苦に弱いから、「幸福になれる」という言葉に騙されて邪宗が蔓延(はびこ)る。
・ 苦に弱いから、金があれば楽が出来ると思い、金を握っている支配層の思うがままに操られる。
・ 苦に弱いから、一流大学を出て一流企業に就職したがる。
・ 苦に弱いから、特に女性は楽な生活が出来そうな結婚を希う。
                                     etc

 霊学を知った者には自明のことですが、人生の目的は楽をすることではありません。教訓を学び霊的に成長することです。
苦はスポーツのトレーニングと同じで、霊的成長に必要不可欠な負荷のようなものです。
この負荷は善悪何れを志向しても公平にかかります。何もしないのは楽ではなく、霊的には最悪の結果を齎(もたら)します。

誰でも重荷負はせてあるのじゃ。重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。
この道理、涙で笑って汗で喜べよ。それとも重荷外してほしいのか。

(ひふみ神示 第二十六巻 黒鉄の巻 第3帖)

結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。しかと褌締めてついて御座れよ。
(ひふみ神示 第十五巻 イハの巻 第7帖)


 次は“我が心通りに写る”日月神示の、早合点し易い落し穴の一つです。

苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ。
(ひふみ神示 第六巻 日月の巻 第36帖)


 これの正しい意味は下の神示を読めば解ります。
神の道に外れて苦労するより、神の道を歩んで無理なく苦労して楽する心が高いと言っているのです。

人民苦しみさえすればよい様に早合点してゐるなれど、それは大間違ひざぞ。
神の道無理ないと、くどう申してあらうがな。

(ひふみ神示 第十五巻 イハの巻 第5帖)



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日月神示 22-22

敵も御役悪も御役ぞ、敵ふへて来ると力出て来るぞ、
(ひふみ神示 第22巻 アホバの巻 第22帖)


 枝野経産相や仙石政調会長代行が大飯原発の再稼動を焦った結果、橋下大阪維新の会代表に民主党政権打倒の「錦の御旗」を与え、山田京都府知事と嘉田滋賀県知事が7項目の共同提言を発表することに繋がりました。
 
 当に藪をつついて蛇を出した形です。
結果的に枝野氏や仙石氏は敵(大阪維新の会や反原発陣営)に力を与える道化役を演じている可能性があります。
これが身魂相当の「悪の御役」というものでしょう。
日月神示が解ってくると、物事を平面的にではなく、立体的に見るようになります。


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日月神示 21-11

行い正しく口静かにしたら神の仕組分るぞ、因縁ある身魂(神の臣民)が、人民では知らん結構を致すぞ。
神示読んで、どんな人が来てもその人々に当る所読みて聞かすが一等ざぞ。
一分(一割)と九分(九割)との戦ひぢゃ、皆九分(九割)が強いと思ふてゐるが、今度の仕組、アフンの仕組ぞ。
早呑込大怪我の基と申すのは我が心通りに写るからぞ。
(ひふみ神示 第廿一巻  ソラの巻 第11帖) 


 何度も繰り返して読んでいる内に、「ナルホドなあ」と自然に解ってくる神示です。
あの人も、この人も、自分もまた、日月神示の解釈を見れば自ずと霊格が判ります。


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大峠の越え方(6)

まとめ
 
 これまで、5回に亘って述べて来た大峠の越え方は、次の5項目に集約されます。

1.改心
  全てを人間中心から神中心へ切り替えること。

2.身魂磨き
  人間の内なる神性を顕すこと。

3.借銭済まし
  カルマの清算を行うこと。

4.因縁の身魂
  口と心と行が揃った神の臣民。

5.正食
  食べ過ぎ、肉食をしないこと。神に捧げて(感謝して)から食べること。




〔お断り〕

 これを以ってこのブログを公開した所期の目的を八分どうり達成しました。
以後の更新は折に触れての不定期となります。(666)


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大峠の越え方(5)

正食

身も心も神のものざから、毎日毎日 神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
身魂みがくと申すことは、(身と心を)神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。
(ひふみ神示 第三巻 富士の巻 第14帖)


 肉食が身体と心(霊性)の双方を穢すことは霊学の常識ですから、上の神示は食と身魂磨きを結び付けるものと考えて良いでしょう。
その他にも、食欲という人間第一の本能を正しく制御することは霊性向上の日常的な訓練であり、広義の身魂磨きの一環と見做せます。(他の本能、性欲、金銭欲、物欲、権勢欲等も同じです。制御に成功すれば弥栄、失敗すれば破滅)
 神示によれば、正しい食生活は運を開き、病を治し、食物(くいもの)に不自由しない道でもあります。
何故そうなるのかは人間の学ではよく解らない所がありますが、この世には神が定めた弥栄の大道のようなものがあるのでしょう。

 以下に、食に関係する神示をピックアップし、順を追って並べてみました。
この中には、目前の大峠越えに役立つ訓えも幾つか含まれています。
数が多いことと、意外なほど許容範囲が広く、取り様によってはどうにでも解釈できることに驚かされます。
これが、“身魂相当に取れるように書いてある”日月神示の特徴なのです。

この神示も身魂により何んなにでも、とれるやうに書いておくから、取り違ひせんやうにして呉れ、
(ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第27帖)

何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。
今の半分で足りるぞ、それが 臣民の頂き方ぞ。
(ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第17帖)

いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、獣と神とが分れると申してあろがな、
獣の喰ひ物くふ時には一度神に捧げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、
(ひふみ神示 第四巻 天つ巻 第5帖)

遠くて近きは、男女だけではないぞ、
神と人、天と地、親と子、喰べる物も、遠くて近いがよいのざぞ、
(ひふみ神示 第四巻 天つ巻 第12帖)

臣民一日に二度食べるのざぞ、
朝は日の神様に供へてから頂けよ、 夜は月の神様に捧げてから頂けよ、
それが、まことの益人ぞ。
(ひふみ神示 第六巻 日月の巻 第25帖)

食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ、
神に供へてからかむのざぞ、かめばかむほど、神となるぞ、
(ひふみ神示 第十巻 水の巻 第6帖)

食物(たべもの)頂く時はよくよく噛めと申してあろが、
上の歯は火ざぞ。下の歯は水ざぞ。
火と水と合すのざぞ。かむろぎかむろみぞ。
噛むと力生れるぞ。血となるぞ、肉となるぞ。
(ひふみ神示 第十巻 水の巻 第15帖)

腹へったらおせよ。二分は大親に臣民腹八分でよいぞ。
減らんのに食べるでないぞ。
一日一度からやり直せよ。ほんのしばらくでよいぞ。
(ひふみ神示 第十四巻 カゼの巻 第1帖)

もの頂く時は拍手打ちて頂けよ、神への感謝ばかりでないぞ、拍手は弥栄ざぞ、祓いざぞ、清めぞと申してあらうが、
(ひふみ神示 第十八巻 ヒカリの巻 第1帖)

日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、 作らしてあるのぢゃぞ、
日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食物の騒動激しくなると申してあること、忘れるなよ。
今度は共喰となるから、共喰ならんから今から心鍛へて食物大切にせよ、食物おろがむ所へ食物集るのぢゃぞ。
(ひふみ神示 第廿巻 ウメの巻 第14帖)

日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食物あるぞ、
人民の食物間違へるでないぞ、食過ぎるから足らんことになるのざぞ、
(ひふみ神示 第廿一巻 ソラの巻 第12帖)

欲しいもの欲しい時食べよ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第23帖)

その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。
身体に合わんもの食べても何もならん。かえって毒となるぞ。
(ひふみ神示 第二十八巻 夏の巻 第19帖)

食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。
食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。
一椀をとって先づ神に供へよ。親にさゝげよ。子にささげよ。
腹八分の二分はさゝげよ。
食物こそは 神から、親から与へられたものであるぞ。
神にさゝげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。
メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。
運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。
腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。
人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。
日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。

その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。
人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。
遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。
運ひらけ、病治ってうれしうれしと 輝くぞ。

そんなこと位で、病治ったり、運ひらけるくらいなら、
人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。
食物節すればツキモノ改心するぞ。
先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。
病もなくなってうれしうれしとなるぞ。

(ひふみ神示 第三十巻 冬の巻 補帖)

腹八分、二分は先づさゝげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。
(ひふみ神示 補巻 月光の巻 第11帖)

四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう。
神民の食物は五穀野菜の類であるぞ。

(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第8帖)

その中に一人だけよくない子が出来た、その子には海の藻草や山の菜、野菜を食べさせてくれよ、段々よい子になるぞ。
(五十黙示録 第七巻 五葉之巻 第1帖)

腹一杯食べてはならん、死に行く道ぞ、二分を先づ神にささげよ。
(五十黙示録 第七巻 五葉之巻 第14帖)


 以上の神示を分類すると以下のようになります。

1.禁止 食べ過ぎる 肉類、四ツ足(動物)を食べる

2.推奨 神に供へ(捧げ)てから喰べる 遠くて近いもの 一日に二度  よく噛む 拍手打って頂く 五穀、野菜、海、川、野のもの、山のもの 食物大切に 欲しいもの欲しい時 腹八分 食物節する

・ 肉類も非常時には神に捧げてから頂けば大丈夫だと意外なことも書かれています。   
 
・ 遠くて近いもの


 植物は、進化の上では鉱物に次いで人間から遠いが、身近にあって最も安らぎを感じるのも植物です。(遠くて近い)
植物自身、動物に食べられることが嬉しいと神示にあります。

草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。
出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、
(ひふみ神示 第十三巻 アメの巻 第3帖)


 その反対が四ツ足(動物)です。
家畜の場合は、屠殺されると察して必死に泣き叫び、抵抗するあの姿を見ただけで、肉食は人の道ではないと悟らなければいけません。
植物と四ツ足動物の中間に、海のもの川のもの(魚貝類)が位置します。
これについては明確な禁止はなく、身魂相当の選択に委ねられていると考えられます。


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大峠の越え方 (4)

借銭済まし

 終末の卒業試験をパスし、みろくの世に甦るにはもう一つ、避けて通ることの出来ない関門があります。
それが、身魂の掃除洗濯、即ちメグリ(借銭、カルマ)の清算です。
カルマの清算と簡単に言いますが、実はこれが人間心では最も受け容れ難い霊的真理なのです。まるで、“不幸は良いことだ”みたいなことだからです。
 実際にそれを体験して良くなった人はともかく、今現在、不幸の真っ只中でもがき苦しんでいる人や、これから地獄に落される人達にこんなことを言っても神への不信感を募らせるだけでしょう。
だから、信者を獲得することが第一の宗教はこの部分を忌避します。
マコトの神への信が問われるところです。
 
損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってめぐり取っていただくのぞ。
めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。

(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第83帖)

めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢゃ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第13帖)

悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第7帖)


 では、一体どうやったらカルマの清算ができるのでしょうか?
そもそも自分にどんなカルマがあるか、人間には判りません。
しかし、自発的に改心身魂みがきを実践していると霊界の方でちゃんとその機会を作ってくれます。
 そのため、当初は改心身魂みがきをやればやるほど悪い事が起ってくると覚悟して下さい。
その時、ああ、これがカルマの清算だなと理解し、喜んでは無理でも甘んじて受け容れることが大事なのです。

これは、私が実際にこの身で体験し、確かめて来たことです。

この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは 大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。
借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。
(ひふみ神示 補巻 月光の巻 第44帖)

この道はじめは辛いなれど楽の道ぞ。骨折らいでも素直にさへしてその日その日の仕事しておりて下されよ。心配要らん道ぞ。
手柄立てようと思ふなよ。勝たうと思ふなよ。生きるも死ぬるも神の心のままざぞ。
どこにどんな事して居ても助ける人は助けるのざぞ。
(ひふみ神示 第六巻 日月の巻 第35帖)


 以上をまとめると、改心身魂みがき借銭済まし、この三つが揃わなければだめなのです。
これにもう一つ付け加えるとすれば、因縁の身魂でしょうか。
日月神示を読んで理解でき、これは良いと思う人は因縁の身魂です。

大掃除はげしくなると世界の人民皆、仮四の状態となるのぢゃ、
掃除終ってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて息吹きかへしてミロクの世の人民と致すのぢゃ、
因縁のミタマ
には(マルチョンの記号)(カミ)のしるしがつけてあるぞ、
(五十黙示録 補巻 紫金之巻 第4帖)


もう一つ、神人だけに許された方法もあります。

取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。神示いただけよ。
日本の臣民皆勇む様、祈りて呉れよ。
世界の人民皆よろこぶ世が来る様祈りて呉れよ、
てんし様(みろくの世の王)まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。
このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。
(ひふみ神示 第十二巻 夜明けの巻 第13帖)

カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。
(ひふみ神示 第二十七巻 春の巻 第2帖)


 以上の他に何か耳ざわりの良い、楽な道があるように説いている所は全部ニセモノだと断じて間違いありません。


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大峠の越え方 (3)

身魂磨き

 次に身魂みがきです。

よくこの神示読んで呉れよ。よめばよむほど、身魂みがかれるぞ、
と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。

(ひふみ神示 第三巻 富士の巻 第13帖)

身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。
(ひふみ神示 第三巻 富士の巻 第14帖)

ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申すことはそむかん様にすることぞ。
学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。

(ひふみ神示 第八巻 磐戸の巻 第16帖)


 直ぐ上の神示は、神智学的にいえば、低我三体(メンタル体アストラル体肉体)を内なる神モナド太陽司神の分神霊)の意思に従わせる、ということになります。
もっと平易な言い方をすれば、良心に従って行動しなさいということです。
「なわのつぶや記2011.01.11」に引用された出口ナオの御筆先にもこれと非常によく似た文章があります。

身魂を磨くと申すのは、天から授けて貰うた大本の身魂の命令に従うて、肉体の心を捨ててしもうて、本心に立ち返りて、神の申すことを何一つ背かぬようにいたすのであるぞよ。学や知恵や仏を力にいたすうちは、まことの身魂は研けておらんぞよ。
(大本神諭 天の巻 大正5年旧11月8日)


また、

みたまみがきとは善いと感じたこと直ちに行ふことぞ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第67帖)


 これが、最も解り易く且つ実践し易い身魂みがきの方法です。
実は仏教の方にもこれと同様な教えがあります。

諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)
(悪いことをするな、良いことをしなさい)(七仏通誡偈


 釈尊を含む七仏が共通して説いた教えを一つにまとめたものがこんな単純なことだというのは驚きです。
しかし、“三歳の童子これを知るといえども 八十の老翁なお行じ難し”です。
因みに私の身魂磨きは、「隠れて善い事をする」、それだけです。

 少し補足しますと、大きなことではなく、毎日でも出来ることで、しかも普通の人は決してやろうとはしないことです。
どうしてやろうとしないのかというと、バカバカしいからです。
なにしろ、顔も知らない他人様の不心得の後始末をこっそりとするのですから。
それを有難くさせて頂くことによって、自分は幾らでも徳積みが出来るのですからこんな愉快なことはありません。
 これを始めると大難は小難に変り、その度に気づきを得られ、その内に何もかもうまく運ぶようになります。神の力が加わって来るのです。
バカになってやってみなさい。
今からでも間に合う、うれしうれしとなる最短コースです。


先に(他人様の)お尻をふかねばならんことも、世が迫ってくると出てくるのぢゃ。
その代り、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さるぞ。

(ひふみ神示  補巻 月光の巻 第56帖)

よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、
人に知れぬ様によき事はするのざぞ。
この事よく深く考へて行へよ。

(ひふみ神示  第六巻 日月の巻 第16帖)


 お尻を拭く、とは勿論カルマの清算のことです。 
何故、人に知られない方がよいのかというと、これは実際にやって見て解りました。
同じことでも、人に知られないように善い事をするのは、自分が神にでもならなければ出来ないことだからです。(悪いことなら誰でも隠れてやれますよね)
人の本性は神なのです。
我善しになっている自分が、その曇りを取って神になることが身魂磨きなのです。

人に知れん様によいことつとめと申してあろが。
人に知れん様にする好い事神こころぞ。
(ひふみ神示 第十二巻 夜明けの巻 第7帖)

臣民には神と同じ分霊(わけみたま)さづけてあるのざから、みがけば神になるのぞ。
(ひふみ神示 第四巻 天つ巻 第12帖)



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大峠の越え方(2)

改心

 先ず、改心から見て行きましょう。

たれ一人、悪いわがままの癖持たん人間ないぞ。
その癖を直して行くのが、皮むくことぢゃ。改心ぢゃ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第90帖)

無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖直して下されよ。天国へ行く鍵ぞ。
(ひふみ神示 第二十七巻 春の巻 第12帖)

梅の実から梅が生へるのぢゃ。その梅に実出来て又梅が生へるのぢゃ。
人間も生れかわっても死にかわっても、中々に悪いくせは直らんもんぢゃぞ。
それを少しづつ直してかからねばならん。
努力次第で漸次直るのぢゃぞ。

(ひふみ神示 第二十七巻 春の巻 第32帖)

悪いくせ直さねばいつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変らんぞ。
おかげないと不足申してゐるが、悪いくせ、悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。
(ひふみ神示 第二十八巻 夏の巻 第10帖)

そなたの心の中にゐる獣、言向けねばならん。善きに導かねばならん。
一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。
マコトの改心であるぞ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第86帖)

自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。
悪いくせ直さねばならん。これが(改心の)第一歩、土台ぢゃぞよ。

(ひふみ神示 第二十七巻 春の巻 第35帖)


 以上は、自己統制(セルフコントロール)という地道な努力による改心ですが、これが出来る人は進化の優等生であり、あまり多くはいないと思われます。
 その他にもう一つ、カルマの清算という不幸現象を通して改心を促す霊的な仕組が存在します。
そして今回、神は人類の三分の一を一度に改心させるため、非常手段を採ります。
それが「一厘のてだて」の重要な構成要素になっている、「めぐり(借銭、カルマ)の集中的な清算」です。

 大峠を越える上で最も大切なことの一つは、この津波のように押し寄せて来る不幸現象の重なりに対して、正しく対処することです。
安全な場所に逃げるとか、物資の備蓄とかをやっても基本的には無駄なのです。
神は今度は心の底から「改心」するまで手を弛めません。
「改心」とは神の前に無条件降伏することだと言って良いでしょう。

まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民沢山あるぞ。
(ひふみ神示 第三巻 富士の巻 第3帖)

世界中の人民に云ふて聞かして改心さすのではキリがないから大変を致さなならんのざぞ。
(ひふみ神示 第二十二巻 アホバの巻 第18帖)

世界の民みな一度に改心するやうに、どん詰りには致すのであるなれど、それ迄に一人でも多く、一時も早く、改心さしたいのぢゃ。
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第18帖)

愈々と成りた時には神が誠の神力出して、天地ゆすぶってトコトン降参ざと申す処までギュウギュウと締めつけて万劫末代、いふ事聞きますと改心する処までゆすぶるから、神の国、神の臣民心配致すでないぞ、
(ひふみ神示 第七巻 日の出の巻 第7帖)

聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
(ひふみ神示 第八巻 磐戸の巻 第16帖)

悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、
霊(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、

(ひふみ神示 第十八巻 ヒカリの巻 第6帖)

改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、
臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、草の葉一枚でも神のものぞ。

(ひふみ神示 第二巻 下つ巻 第24帖)

誰の苦労で此の世出来てゐると思ふてゐるのぢゃ。
此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。早う元にかへして改心いたされよ、
(ひふみ神示 第十五巻 イハの巻 第11帖)

此の世の物一切神の物と云ふ事まだ判らんのか、
一切取りげられてから成程なァと判ったのではおそい
から嫌がられても、くどう同じ様な事申してゐるのざぞ、
(ひふみ神示 第十三巻 アメの巻 第16帖)


 神が悪に対して“改心せよ”という意味がこれです。 
正神から見れば、邪神とは天地の大泥棒ですが、実は、進化の一階梯として敢えて邪神の天下を許して来たのです。
終末とは此の世を我が物にしている人間(なかんずく支配層)及び彼等を操る邪神邪霊の役目が終ったことを告げる一大イベントでもあるのです。
人間の世から神の世に替わるのです。

此の方 悪が可愛いのぢゃ、御苦労ぢゃったぞ、もう悪の世は済たぞ、
悪の御用 結構であったぞ。早う善に返りて心安く善の御用聞きくれよ。

(ひふみ神示 第十三巻 ソラの巻 第10帖)



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大峠の越え方 (1)

改心身魂磨き

 日月神示には冒頭から、大峠越えには身魂みがきが必要であると書かれています。

二二は晴れたり、日本晴れ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初って二度とない苦労である。
(ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第1帖)


 そして、次元上昇後、みろくの世に甦る人は身魂が磨けた臣民ばかりであり、そのためには改心が何より大事であると書かれています。

一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、
それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒の世の臣民とするのぞ、
どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、
いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。
何よりも改心が第一ぞ。
(ひふみ神示第三巻 富士の巻 第19帖)


 “改心身魂磨き”が終末の篩いに残るためのキーワードであることに疑問の余地はありません。
では一体、改心とは何か。身魂みがきとは何か。
これも大本、日月の神示に幾とおりもの表現で懇切丁寧に説かれています。
 以下、それらを5項目に纏めてみました。
その中で一つでも二つでも良い、自分によく解るものを選び、心に入れて実践して行けば良いのです。
 日月神示は実践出来るかどうかに全てが掛かっています。
この神示を軽く見ていると、もう直ぐ、地団太踏んで悔しがる時が必ず来ます。
後悔先に立たず。今度ばかりは取り返しのつかないことになります。



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みろくの世(2)

メンタル界
A・E・パウエル編著/仲里誠桔 訳「神智学大要3 メンタル体](たま出版) より

 日月神示「うれしうれしの世」は実は四次元のアストラル界ではなく五次元のメンタル界(天界)のことだと思われます。(次元上昇後の半霊半物質界では、アストラル界メンタル界の表現は不適切かも知れませんが)
アストラル界みろくの世(千年王国)の終りに最後の審判があり、その後、本当のみろくの世に(五次元、更に六次元へと)移行するのです。
そのメンタル界の様子を神智学から垣間見ておくことにしましょう。

 メンタル界で目覚めると、まず、真っ先にこの上なく微妙な色彩が目に映ります。
空気までが音楽と色彩かと思われ、全心身に光と調和とが漲ります。
やがて黄金色の霞の中から地上において愛した人々の顔が現れます。
その顔は霊妙なる美に輝き、下界の葛藤や喜怒哀楽に染まぬ、いと気高く美しき情感を湛えています。
 天界で目覚めた時に受けるこの至福を適切に表現しうる人は恐らくいないでしょう。
この深甚なる至福が天界の主な特徴なのです。
この至る所喜悦が圧倒せんばかりに充満している実感がデヴァチャン(天国)住人より消えることは決してありません。
かくのごときは地上には絶えて無く、それを写しうる者も絶えていません。
またこの天界の巨大なる霊的活力は言語に絶します。

 地上生活中、主として物質的なものを重んじた人はこのメンタル界では大した活動はできません。
しかし、芸術、音楽、哲学のような世俗を超越したものに関心を持っていた人の場合は、測り知れない楽しみと限りない教えとが待っています。
 一方、その高尚な思いが他人に対する深い愛情や神に対する献身と結びついている人々も多くいます。
この場合、彼のメンタル体に刻み込まれたその心象には、実際にその対象となる人の高我や神が入魂し、一個の生き物として彼の傍らに居るようになります。
 このようにして、天界生活においては、各人の身の廻りに彼が信奉していた神や親しい人々にそっくりの想念形態が集まっています。
しかも彼ら知人は地上やアストラル界における低我の状態に関係なく、最善の状態(美しい、若い、親切、優しい、愛情深い等々)で光り輝いているのです。
こうして、彼らはこの天国で文字どおり至福の時を過すのです。

 輪廻転生を続けている期間中、デヴァチャンでは、終えたばかりの地上の一生で「内なる思考者(魂)」が経てきた数々の体験のうち、価値ある体験だけを選り出し、それについて沈思黙考(消化)し、次第にそれを道徳的、精神的能力として昇華せしめ、次の生に持ち越すべき力とします。
 地上での学習が終了した後は、霊界そのものを進化のフィールドとし、逐次界層を上昇して父なる神の御許へ回帰する旅路を急ぐことになります。
人間の本体とは、肉体に宿った太陽司神(の第一側面)の分神霊モナドなのです。

 読者は次のことをよくよく心に留めておかれたい。
「進化の目的とは、われわれがすべての界層において、全知全能の主となることである。
モナドは、はじめから全知全能ではあるが、質料の衣(肉体、アストラル体、メンタル体)を纏うことにより、赤子のごとく無力となる。ここに大いなる試練と学習の機会とが生じるのである」
今、目前にある最大の難関、大峠を全身全霊挙げて乗り越えよ!
次回以降、その大峠の越え方を論じて行きます。それが終ればこのブログを公開した目的も八割方達成です。
 
 例年より春の遅い東北は、今朝もうっすらと雪が積もっています。
しかし、日中陽射しが出ると実に暖かく感じられ、間も無く梅、桜、新緑の季節がやって来ます。畑仕事も始めなければなりません。
私も、おそらく二度と味わうことは無いであろう地上の春を心置きなく楽しみたいと思っています。


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みろくの世(1)

シルバー・バーチの心象風景〕
近藤千雄 訳編 「古代霊は語る シルバー・バーチの霊訓より」 (潮文社) 新装版 第五章 死後の世界 p167ー170
 
 あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。
肉体の牢獄から開放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当らないのです。
その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。
霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。
 人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。
あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。
霊的な真実については死人も同然です。
なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。
ただし、徐々にではあっても成長はしています。
霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。
霊的な光が広がれば当然暗やみが後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。
譬えるものが地上に見出せないのです。
あなたがたが〝死んだ〟といって片づけている者の方が実は生命の実相について、はるかに多くを知っております。
 この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。
画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。
地上の抑圧からきれいに開放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。
インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。
 金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。
弱者がいじめられることもありません。
霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。
失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。教典もありません。あるのは神の摂理だけです。
それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。
正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。
なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。
そして、それを支援してくれるあなたがたの、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。
 死ぬということは決して悲劇ではありません。
今その地上で生きていることこそ悲劇です。
神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。
 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。
苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。
痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。
 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵具では表現できないでしょう。
いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律のひと節たりとも表現できないでしょう。
いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。
そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。
そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。
 いま地球はまさに五月。木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。
あなたがたは造花の美を見て〝何とすばらしいこと!〟と感嘆します。
 が、その美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色あせた模作ていどでしかありません。
地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。
そのほか小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。
そのうちあなたがたもその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。


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アストラル界 (5)

日月神示
 
 霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。
住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。
 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。
と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく(現実世界と)同様であると云うことを意味する。
 また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。
その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。
 そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。
霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。
地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。

 これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。

 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。
高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自ら(おのずから)にして着することとなる。
彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。
理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。
 但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。
この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。
しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着(ちゃく)せる如く見ゆるのである。また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。

 霊人はまた、いろいろな食物を食している。
云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。
食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。
 地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。
(666註; アストラル、その他の質料の吸収同化。地上人も食物から肉体を造る)
そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。
 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。
食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。
 以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。
また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。
 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。
霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。
そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。
そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。
(ひふみ神示 第十七巻 二日んの巻 第15帖)



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アストラル界(4)



 人間が睡眠中に幽体離脱してアストラル界に来ていることは、霊学の常識です。
その一部がとして思い出されることがあるのです。
そのことに触れている記事を以下に幾つか紹介します。

 なお、「霊学」という言葉は、「科学」や「哲学」、或いは「宗教」等に対して、「霊的智識の体系」という意味で私が勝手に使っているものです。
霊学は単なる知識ではありません。神を理解する確かな道です。神を知るには他に愛から入る道と美から入る道があります。(666)

1.シルバー・バーチ

 実は今でもあなたがたは毎夜のように霊の世界を訪れているのです。
ただ思い出せないだけです。
それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。
 来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。
肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。
( 近藤千雄 訳編 「古代霊は語る シルバー・バーチの霊訓より」 潮文社 新装版 第五章 死後の世界 p170~171)

2.F・C・スカルソープ

 夜中に霊界を旅行すると、まだ生きているはずの人々をよく見かけることがあります。


(「私の霊界紀行」 F・C・スカルソープ・著 近藤千雄・訳 潮文社 なわ・ふみひと氏の「SPACE LIBRARY 4号室」より)

3.神智学

 アストラル界層の住人の中で、肉体を持った人間に由来するのは次の三種類です。

1. 睡眠中の普通人の霊


2. (スカルソープのような)霊能者の霊 
 殆んどがアストラル界止まりでメンタル界まで上ることはない。

3. 大師とその弟子達の霊
 通常アストラル体ではなく、メンタル界層の低位四亜層の質料より成るメンタル体を用いる。メンタル体はアストラル視力では見えないので、姿を見せようと思う場合は、自分のメンタル体のまわりにアストラル質料の覆い(ヴェール)を臨時に集める。
 666註: こういうプロセスを俗に波長を下げる、と解ったような解らないような表現をしているのです。だから私はこの言葉を嫌って日月神示で使われている波調を使うようにしています。
 波動の方は神智学でも普通に使われていますが、「想念はメンタル体の中に波動を生じ、音波のように周辺の質料に伝わる」という意味のことが、はっきりと書かれており、想念=波動ではありません。
(A・E・パウエル 編著/仲里誠桔 訳 神智学大要3 メンタル体 第七章 想念波)

の一般論(語調は原文のまま)
 
 目が覚めてみると、睡眠中に何かした筈だが一向に思い出せない、という場合が時々あるものだが、それは、アストラル意識はあるが、肉体頭脳の方がその記録を感受しえないからである。
 そうかと思うと、時にはアストラル体の主人公が一時的ではあるがその行動、体験をエーテル複体と肉体とに印象付けるのに成功して、アストラル生活が鮮かに思い出される場合もある。 しかしそのような記憶も普通はすぐに消えてしまい、なかなか思い出せはしない。
しかも思い出そうとすればする程余計思い出せないものである。それは思い出そうとする努力が肉体頭脳の中に強烈な波動をひきおこし、より微妙なアストラル波動を圧倒してしまうからである。
(この故に、私は寝起きから朝の時間帯に心に浮かぶ考えを大切にする習慣がついているのです。特に物を書く時はそうです。666)

 アストラル生活の記憶を肉体頭脳に移すには、アストラル体がそれだけ発達しているか、エーテル体のチャクラが目覚めているかしていなければならない。
その上、アストラル波動を集中させる働きをする脳下垂体が活発に働いていなければならない。

・ 四種類の(詳細は省略)

1.肉体脳の
 肉体意識に起因する脈絡のない

2.エーテル体の脳の夢
 睡眠中のエーテル脳が過去の記憶や、外部からやって来る想念の断片を拾って展開する辻褄の合わない夢。

3.アストラル体の夢
 アストラル界で体験したことの記憶。アストラル体に記憶された過去の欲望が息を吹き返すこともあります。

4.魂の夢
 人が死の瞬間に一生を細部まで思い出すのがこれ。
未来に起ろうとする事件や事故の予知夢などもそうです。
 
(A・E・パウエル 編著/仲里誠桔 訳 神智学大要2 アストラル体 第十章 夢 より)   
   

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アストラル界 (3)

〔私の霊界紀行〕 
F・C・スカルソープ・著 近藤千雄・訳 (潮文社)
なわ・ふみひと氏のBrowse 365より転載

・ 記憶がこしらえる世界

 霊界の下層界は地上とそっくりである。
都会あり、町あり、村ありで、いずれも地上の現在のその地域の写しであるように思える。
幽体がその界層と同じ波長を整えれば、そこの存在物はすべて地上と同じく固く感じられる。(666註: 意識によって、固く“感じられる”のであって、実際に固いのではない)

 そうした地域性はその地域で他界した住民の精神の働きによって形成されるから見覚えのある環境となっているのだということを、何かの本で読んだことがあるが、それは事実のようである。
同時に、精神というものは細かい点まで再現する写真的ともいうべき記憶性を有していることも事実である。

 一例をあげれば、ある町の通りに街灯を見かけたことがある。
これなどは夜のない世界では不要のはずであるが、地上で見ていたその記憶が自動的に再現するのである。(666註: 霊界は全体が光り輝いていて影も夜もない

 この無意識の創造力(666註: 想念の形態化)について霊界の教師と話をしていた時に「その衣服はどこで仕入れられましたか」と聞かれたので、私はまじめに受けとめて地上の洋服店の名前を思い出そうとしたが思い出せなかった。
実はその先生はそんなことを聞いたのではなかった。
そのあとで私の衣服を指さして「よく見てごらんなさい」と言われて改めて見ると、いつもの普段着を着ており、驚いたことに、チューブを強く押さえすぎて飛び散った歯みがきが全部取り切れずにシミになって残っているところまで再現されていた。

 霊界の下層界の住民は大なり小なり霊的真理について無知である。
自分が死んだことに気づかない者すらいるほどである。
生活環境が変わったことにうすうす気づいてはいても、夢幻の境にいるようで、はっきりとした自覚はない。
こうした種類の人間は地上時代そのままの常識をたずさえてきており、彼らにとって霊はあい変わらず曖昧な存在である。
環境が地上と少しも変わらないからである。

 これだけ体験と知識とを得た私ですら、霊界のどこかに到着したときは自覚がはっきりせず、まだ地上にいるような錯覚を抱いていることがある。
そのうち前もっての知識が表面に出てきて、やっとそこが霊界であることを認識する。

 見かけたところ大ていの住民が満足している様子である。
体調はいいし疲れを感じることもないからであるが、知識欲も好奇心も持たない。
どうやら向上心というものは内部から湧き出るしかないというのが法則であるらしい。

いつかはその時期がくるであろうが、地上時代に染み込んだ観念がそのまま霊界生活となっている人が多く、習慣がそのまま持続されているのである。
そのため霊界の下層界では地上と同じ仕事が見られる。
例えば道路工事、工場での仕事、橋の建設、等々。
炭鉱夫が例の運搬車に乗って機嫌よさそうに鼻歌をうたっているのを見かけたことがある。

 ある工場では溶接工が仕事をしているのを見物したことがある。
火花といってもごく小さなもので、マスクもいらないほどであるが、本人は大まじめで溶接しているつもりだった。
見つめている私を見上げて「あんたもここで働いてるのか?」と聞くので「いや、いや、ちょっと見物してまわっているだけだ」と答えたことだった。

 霊の世界では思念が具体化するようである。それで“物”が存在するように思える。
進化するとその一種の「創造力」(666註: 心に描いたイメージが形になる)が別の形で活用されることになる。
有名な心霊学者のF・W・H・マイヤースが死後送ってきた通信「永遠の大道」(浅野和三郎訳・潮文社)の中で、この霊界の下層界のことを「夢幻界」と呼んでいるが、至言である。(666註: この物質界層も一種の「夢幻界」であると見ることも出来る)


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アストラル界 (2)

〔これが死後の世界だ〕
W・H・エバンズ・著 近藤千雄・訳 (潮文社)
なわ・ふみひと氏のBrowse 365より転載

 この短い抄録は、少女の口を借りて、下層霊界の真実を実に解り易く教えています。
意外に思われるかも知れませんが、難しい神智学日月神示を理解し自在に引用できる私が、なわさんのサイトの中で最も高く評価しているものの一つです。(666)

・ 少女からの通信

 …以上は大人の見た子供の生活であるが、今度は子供自身はどんな見方をしているかを子供自身の口から聞いてみよう。
出典はカミンズの『彼らは今も生きている』。
質問者はカミンズ女史のよき理解者で協力者のギブズ女史。語っているのはエリザペスと名のる少女。
本来カミンズ女史は自動書記霊媒であるが、この通信だけは突如として現れた入神談話である。

 エリザペス「またお話しできるのね。このあいだもずいぶん話したっけ。
でもあの時はママに伝えてほしいことばかりしゃべっちゃって……。
だって、あたし、地上にいた時よりずっと賢くなっていることをママに知ってもらいたかったの。今なら絶対ママに負けないと思うわ。
ところで、おばさんはお人形と遊んだことある?」
(私は「おばさんはお転婆だったから、お人形がきらいだった」と笑いながら答えておいた)

 エリザペス「こうして地上に戻って昔のあたしに帰るのは、ちょうどお人形さんと遊ぶ時みたいで、とっても面白いわ。
でもね、こうして話をしているあたしは本当のあたしの一部分、それも、つまんないところだけなの。
あたしのママだって同じことよ。こちらの世界ではママのもっと素敵な部分がママの来るのを待っているのよ」(666註:神界にいる人間の本霊=神の分霊、「そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢゃ」 ひふみ神示 白銀の巻 第1帖)


 問「お嬢ちゃんが死んでから最初に連れて行かれたところはどんなところだったか教えてくれない?」
 エリザペス「そうね、話してみようかしら。だけど、おばさんて面白い人ね。まるで先生みたい。だって、聞いてもわかんないくせに色んなことを聞いてみるんですもの。(クスクス笑う)
小さい時に死んだ人は死んでからずいぶん長いあいだ眠るんだけど、生まれてすぐ死んだ人だとすぐにほかの肉体に入って、そのまま大きくなることがあります。でもそれは滅多にないことよ。
大ていの人は目が醒めると大人の人に連れられて、地上と同じ家のたくさんあるところへ行くのです。
いま家があると言ったけど、本当は無いんです。でも地上の家と同じように、そこに住むことが出来るんです。

そういうことは案内してくれる大人の人がちゃんと教えて下さいます」
 「つまりね、おばさん、あたしが心の中で家のことを考えるとそこに家が出来るんです。
あたしたちのお友だち同士が子供に見えるのも、お互いが心の中に子供のイメージを画いているからなのです。

おばさんたちだって、お互いが子供の気持になって付き合ったら、次第に子供に見えてくるはずよ」
 「それから、あたしの身体は地上の人が固いと言ってるもので出来ているのではありません。
空気よりもずっと軽くてキメの細かいもの(666註:霊界の質料=霊界の原子、分子)で出来ています。その身体には自分が思う通りの形や色を付けることが出来ます。

おばさんは気づかなかったでしょうけど、あたしは一度おばさんの心に絵を画いてみたことがあるのよ。
あたしは心に思っただけで絵が画けるんです。
おばさんもこちらへ来たら画き方を教わります。
家を建てようと思えば心の中に家の絵を画くんです。すると、まわりにニョキニョキと家が建ち始めます。
お伽話もぜんぶ本当にあることばかりよ


・ 魔法のような力

 「魔法の杖を握ったらおばあさんが少女になったり、魔法のじゅうたんに乗ればどこへでも飛んで行けたりするのも、みんな魔法のような力をもった心がそうさせるのです。
人が止めようとしても止められないの。すごいんだから、その力は。

でも、来たばかりの子供にはそんなことは出来ません。心の使い方がわからないからです。
始めはただ地上に似たきれいな国や立派な人々や家なんかを見るだけです
 「そのうち次第に自分の心に強い力があることを知ります。
すると遊びをやめて、その力の使い方を勉強しようと思い始めます。
一ばん最初に教わるのは自分の好きな場所の拵(こしら)え方です。
もちろん始めは一つずつ拵えて行きます。

あたしが最初に作ったのはお馬さんでした。
心で考えてからしばらくすると、すぐ目の前に一頭の馬が現われたのです。その時はうれしくて、うれしくて」
 「お友だちの中にはつまんないものを拵えるのがいてね。
あるお友だちなんかジャングルとプレーリー(大草原)なんかを欲しがったの。
その子は頭のいい子だったからすぐに拵えることが出来たんだけど、拵えてみると薄暗くてヘビなんかがウヨウヨしてるでしょ。
急にこわくなって大急ぎでホラ穴を拵えて、その中でブルブルふるえていたんですって。もちろんその穴も心で拵えたのよ

 「結局あたしたちはこちらでも地上と同じ生活をするんだけど、ただ違うのは、家なんかが大人の方が拵えたものだということ、
そして、そのうち心の使い方を教わると自分でいろんなものを拵えたり、大人の方が作ってくれた場所(環境)を作り変えたりするってことね。
もちろん手や筋肉を使うのではなくて、心に絵を画いておいて、次にそれが本当にそこにあるのだと信じるの。
一ばん難しいのは信じるってことね。
あたしも最初は信じることを何回も練習したっけ。
 悪い人はこちらへ来ても悪いことばかり考えるから、いやあな場所が出来ちゃうの。子供は教わったことを信じて、そのことだけに一生けんめいになるから、いつも楽しいことばっかりよ。
 だけど、ただ一つだけどうしても作れないものがあるの。
それはね、人間。パパややママはどんなに拵えようとしても絶対にダメ。

大人の方に聞いてみたら霊魂だけは誰にも作れないんですって
そういうことを教えてくださる大人の方はみんな優しくて親切な人ばかりだから、私たち子供がびっくりしないように、いつも姿を変えて来て下さるのよ


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アストラル界 (1)

〔私はアセンションした惑星から来た ー 金星人オムネク・オネクのメッセージ〕 オムネク・オネク 著 益子祐司 訳 徳間書店 2009年刊

 オムネク・オネクは幼少期を金星のアストラル界で過し、その記憶を写真のように鮮明に保持したまま、バス事故で死んだ地球人の少女と事故現場で入れ替わった金星人です。(註: 二人の間には古い未清算のカルマがあった)
勿論、この事故は予め予知され、入れ替わりは異星人たちによって周到に準備、計画されていました。
霊魂の入れ替わりではないので、亡くなった少女の遺体は密かに処分された筈です。
 私は、この本には霊学的な誤りがかなりあると見ていますが、その理由は彼女が普通の金星人である上に、子供の時から地球人になっているため、地球の粗い波動の影響をかなり受けているせいだと思っています。
 しかし、彼女が語る金星での生活体験に関しては信用でき、極めて具体的で興味深いものです。それらは基本的に私達が持っている霊学的知識と矛盾しません。
ここではその「金星のアストラル界の様子」ではなく、彼女が7歳の時、肉体を纏って金星の物質界に出て来た時の様子を紹介します。
この方が、かえってアストラル界の特徴が良く解るからです。
なお、彼女は物質次元の宇宙船で地球に送られ、チベットの修道院で地球での生活に慣れるための準備期間を過しています。(666)

・ アストラル体から肉体を顕現することはショッキングな体験
  p271~272から抜粋

 その体験そのものはなかなか説明がしにくいものです。
私たちが目を閉じて秘密のマントラを唱え始めて数分が経過した頃、それは起こりました。それはまるで一瞬にして世界が崩壊したような感覚でした。
私が覚えているのは、自分の中に輝く白い閃光と花火が見え、耳鳴りのような音が聞こえ、そしてあたかも全身の筋肉がいっぺんに張ったかのように、体がぐいっと引かれる奇異な動きを感じました。これらすべては同じ一度のショックの中で起こりました。
 私は目まいを感じ、方向感覚を失って、息をするのもやっとの状態で、全身になんともいえない不快な生温かさを感じていました。
そのとき私は自分が肉体の殻に覆われていることに気づいたのです!
私は呼吸をしつづけることに苦労していました。
なぜならそれまでは一度もそんなことはしていなかったからです。

そしてアストラル・アイ(目)の広い視野の代わりに、私は二つの小さな穴を通して見ているのです。それが私の肉体の目でした。
 私がどれほどみじめに感じていたかを理解していただくためには、あなた自身がある日突然に全身を鎧ですっぽりと包まれてしまったことを想像してみて下さい。
体の自由がきかず、身動きがしづらくなり、そしてそこから抜け出すことができないことが分かっている時の気持ちです。
 私は伯父に自分の肉体が好きではないと言うと、彼は笑っていました。
そして私はそれに慣れていかなくてはいけないと言いました。
「どうして私はこんなものに慣れていかなきゃいけないの?」。私は大きな声で尋ねました。彼は人は何にでも慣れていかなければいけないものだと答えました。
「でも首を回さなければ周りを見ることもできないのよ!」。私はそう訴えました。
アストラル界では私たちは(首を廻らさなくても)身の回りのすべてを認識することができていたからです。
私たちはまた体の形や外見を変える能力も持っていました。
しかしここでは一つの体の中に閉じ込められていて、顔の表情以外は何も変えることができないのです。
 歩行は最も厄介なものでした。私は(アストラル界で)どこでも行きたいところへ滑走していくか、単に目的地に現れることに慣れていました。(註: 思念による移動

しかし肉体ではそのようなことはできず、ちょっとずつ、一歩一歩進まなければなりませんでした。

・ 母船内の様子と生活 ー 2日間かけての地球への旅
  p288~289から抜粋

 私の最初の睡眠体験は思いがけないかたちで訪れました。
はじめは私は睡眠をとることの必要性に気づいていませんでした。
なぜならアストラル界では心の休眠しかなかったからです。
(中略)
 以前にヴォニック(地球生活の教師)は私に睡眠と排泄やその他の肉体の機能について教えてくれていましたが、当時の私はそれらの概念がよく理解できませんでした。
女性の搭乗員の中の一人が私にトイレについて説明してくれて、使い方も教えてくれました。私は驚きの声をあげてしまいました。


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 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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