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慰安婦問題は「亡国」の凶器

 当ブログの二つ前の記事にシンクロして、昨日、なわさんの「Browse 365」に紹介された『日本国民に告ぐ』(小室直樹・著)の出版は2006年3月、今から10年前です。
これにより、反日メディア「朝日新聞」が従軍慰安婦問題の大捏造プロパガンダを打った時期の雰囲気が分ります。現在、安倍内閣の登場により、状況は少しずつ改善される方向にあると思います。日本人の魂はそう簡単には亡びません。


なわ・ふみひとの「Browse 365」
日本国民に告ぐ』 小室直樹・著 (ワック出版)
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1303-12.html

日本破滅の予兆
 日本は何者かに呪われている。何か強い意志がそこに働いているとしか考えられない。日本人は、ハーメルンの笛吹き男の笛の音に導かれて怒濤の中へ突進して行った鼠の大群のように、投身自殺しようとしているのだろうか。
 平成元年(1989年)は、歴史の転換点だった。昭和天皇崩御の年であり、ヒトラー生誕100年の年でもあった。
  6月4日に天安門事件。人民中国が人民を虐殺し、中国の赤い星は墜ちて微塵となった。
 11月9日にベルリンの壁撤去。共産主義による自由弾圧の代表例であったベルリンの壁が撤去されたことの意味は、限りなく大きい。
 世界史は目眩めくスピードで激動し、流転の時代に入った。
 ソ連は、苦悶して、のた打ち回る。諸民族の反乱。労働者の反抗。20世紀最後の大事件、ソビエト帝国の崩壊。マルクス・レーニン主義は没落へ向けて一直線。
 ある作家曰く、
 「天安門事件のニュースに接した時、これ程の事件で、今年の大ニュースは打止めだと思ったのに、更にずっと大きな事件の予兆に過ぎなかった」
 この年、恰も昭和天皇が神去りまつるを待ち構えていたかのように、日本破滅の予兆が兆したのであった。
 この年、忌わしき「従軍慰安婦問題」が日本人から持ち出された。この年、「朝日ジャーナル」に、「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式陳謝せよ」との意見広告が、半年間に亘って掲載された。始めは、これ程の大事件に発展すると思った人は鮮(すくな)かったろう。しかし、ここに始まった「従軍慰安婦問題」は、渓流となり、川となり、河となり、ついに滔々たる大河となって全日本を呑み尽そうとしている。
 誰か狂瀾(荒れ狂う波)を既倒に廻らす(押し返す)者ぞ。
 ご存じのことと思うが、始めに、ことの経緯を鳥瞰しておきたい。

中学校教科書、全社で「慰安婦」登場

 平成9年度から使用される中学校の社会科(歴史)の全教科書に、いわゆる「従軍慰安婦」問題が登場することになった。日本書籍、東京書籍、大阪書籍、教育出版、清水書院、帝国書院、日本文教出版の7冊ともに「従軍慰安婦」が登場する。
 例えば、東京書籍の「歴史」教科書は「従軍慰安婦として強制的に戦場に送り出された若い女性も多数いた」と、最大の争点である「強制連行」を史実として記述している。
 「歴史」教科書だけではない。「地理」や「公民」の教科書も、「戦後補償」問題と絡めながら「従軍慰安婦」問題を取り上げている。
 問題なのは「従軍慰安婦」問題だけではない。所謂「南京大虐殺」の被害者数についても、殆んどの教科書に「十数万」、「二十万」、「二十数万」、「三十万」といった捏造された厖大な数字が掲載されている。(注: 当時の南京市の人口20万人を超える) 報道によれば、日中戦争の発端となった蘆溝橋事件についても、「日本軍が起した」とする誤った史実が文部省検定をパスしていた。
 また、日ソ中立条約を一方的に破棄し、千島列島や満州を侵略した上、57万5000人の日本人をシペリアに連れ去って酷使(うち5万5000人が抑留中に死亡)したソ連軍の対日参戦を、「進撃」といった肯定的な表現で記述している。
 わが国の教科書が、所謂東京裁判史観の影響を色濃く受けた自虐的な暗黒史観によって書かれていることは、兼ねてから指摘されて来た。ところが、平成9年度から使用される教科書の記述は、右の様に、従来よりも遥かに自虐的な記述となっている。全くの嘘の記述、間違った表現も激増している。その上、事実の歪曲、嘘の捏造も、格段に大規模且つ悪質になって来た。
 藤岡信勝東京大学教授(現在、拓殖大学日本文化研究所教授)らの努力によって、教科書の自虐的な記述を改正すべきとの声も上がっていたが、平成9年度の教科書の記述は改正されなかった。

誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する

 このことがいかに恐ろしいことか、本気になって論じようとする者は、まだいないようである。
 日本滅亡の兆しは、今や確然たるものがある。
 滅亡の確実な予兆とは、先ず第一に、財政破綻を目前にして拱手傍観して惰眠を貪っている政治家、役人、マスコミ、そして有権者。
 財政危機は先進国共有の宿病(持病)である。欧米では、人々は財政危機と対決し、七転八倒している。政治家も有権者も、早く何とかしなければならないというところまでは完全に一致し、そこから先をどうするかを模索して必死になって争っているのである。
 それに対し、遥かに重病の日本では、人々は案外平気。財政破綻とはどこの国のことか、なんて顔をしている始末。
 日本滅亡の更に確実な第二の予兆は、教育破綻である。
その一つは、数学・物理教育の衰退枯死。このことが如何に致命的か。
 日本経済は技術革新なしには生残ることは出来ない。しかし長期的には、日本の技術立国の基礎は確実に崩壊しつつある。工学部始め「理科系」へ進学する(あるいは進学を希望する)学生が急激に滅少している。真に由々しきことである。
 技術立国のためだけではない。数学・物理は、社会科学を含めた全ての科学或いは学問の基礎であると迄断言しても、中(あた)らずと雖も遠からず。
 だが、更により確実な滅亡の予兆は、自国への誇りを失わせる歴史教育、これである。誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する――これ、世界史の鉄則である。この鉄則を知るや知らずや。戦後日本の教育は、日本の歴史を汚辱の歴史であるとし、これに対する誇りを鏖殺(おうさつ)することに狂奔して来た。その狂乱が極限に達したのが、「従軍慰安婦」問題である。

なわのひとくちコメント
 
 今日本は、中国や韓国による意図的・計画的な情報発信によって、世界中からバッシングの嵐に遭いつつあるのが見て取れます。中国や韓国も、日本という国をこの地球上から抹殺してしまおうとする勢力に操られているのですが、何れにしても日本破壊の動きが加速しているのは確かです。昨今の中国や韓国の日本に対する嫌がらせは度を超して来ました。中国や韓国の国内では反日教育とマスコミの日本叩きの報道で、特に若い人達は反日の考えを植付けられているのです。
 組織が崩壊するには幾つかの主要な原因があります。先ず、その構成員が組織の危機を認識出来ないこと、次に、構成員が自らの組織に対して誇りを持てないため組織防衛の気持ちを持得ないこと、そして、組織のリーダー層が外部勢力によってコントロールされていて、組織の崩壊に手を貸していること――等です。国家の場合も全く同じで、今の日本が当にその状態にあると言えるでしょう。
 さて、では国の崩壊の道連れにされつつある私達に残された手段はあるのでしょうか。
 まずは現実を直視し、この国の破壊を目論む人間達(世界支配層?)の片棒を担いで来たのはどの人物達なのかを知ることです。また、今現在、そのような支配層に操られている人物は誰なのかを知っておくことも大切です。マスコミはそのような人物のことを最終的には庇います(好意的に取扱います)。かつてこの国を売る役目を引受けた米内光政や山本五十六と同じ役割を担わされた人物が、今政界や宗教界の頂点に立って、この国に歴然とした影響力を持つに至っているのが良く分ります巣。
 しかしながら、私たちが為すべきことは、そのような人物を憎んだり、軽蔑したりすることではないのです。私達日本人の祖先、即ち先人達が築いて来たこの国の正しい歴史を自ら学び、自信と誇りを取り戻すと共に、その正しい歴史を、未来を担う若い人達に伝えて行くことです(と言いましても、学校の歴史教育で洗脳されてしまっている彼等はなかなか聞く耳は持たないと思いますが……)。教科書迄が、ある筋の圧力(と、多分金の力)によって一斉に書換えられてしまい、それがあっさりと政府(文部省)によって認可される国になってしまっているという悲しい現実は認識しておきたいと思います。(なわ・みふひと)


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台湾で最も尊敬される日本人

 日本人には国の内外を問わず、こういう知られざる「義人」が(恐らく多数)存在します。
事情は、日本が統治した韓国でも同様だった筈です。真実を隠蔽し、日本人を貶める理不尽な中・韓の反日教育と、これに同調する日本国内左翼の罪は深い。

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画像転載元: (http://reader.roodo.com/kcn/archives/5973177.html


MAG2 ニュース
台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた
    2016年2月24日             Japan on the Globe
http://www.mag2.com/p/news/151062~/3)

 大正時代、台湾の人々の生活を豊かにしようと奮闘した日本人がいました。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、台湾に東洋一とも言われるダム建設をした日本人技師「八田與一(はった よいち)」の感動秘話が紹介されています。今も語り継がれる八田氏の人情味溢れる活躍ぶりは、台湾と日本の固い絆、そして日本人としての誇りを再確認させてくれます。

戦前の台湾で東洋一のダムを作った日本人

 台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分程行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、満々と水を湛えた湖水にはボートも浮ぶ観光地になっている。

 このダムを見下す北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、外代樹(とよき)之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下し、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、このダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。

 1996年、地元の農民達と日本人が集まって、墓前で50回目の慰霊祭を行なった。参加した「百年ダムを造った男」の著者・斉藤充功氏が、丁度ダム見学に来ていた女子高生2、3人に話を聞いてみると、こういう答えが返って来た。

 「学校の授業でダムを作ったのが日本人だということは聞いて知っていました。しかし何という日本人なのか先生も知らなかったので興味を持ってここに来ました。説明板を読んで八田與一技師ということが分りました。驚いたのはダムが出来たのが私のお爺さんの時代で、遠い昔に10年も掛けて八田技師はここに住み着いてダムを完成させたと書いてあります。日本人は凄いと思いました」

 八田與一の業績は、元台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事に要約している。

「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、恐らく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大圳(だいしゅう、大用水路)を大正9年から10年間掛けて造り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
 台湾南部の嘉義から台南迄広がる嘉南平野に素晴らしいダムと大小様々な給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人程の農家の暮しを豊かにした人です」

嘉南平野開発計画

 嘉南平野は香川県程の大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地である。また亜熱帯性気候で1年に2、3回もの収穫を期待出来る地域であったが、水利の便が問題だった。
 降水量こそ年間2000ミリを超える豊かさであったが、河川は中央山脈から海岸線迄一気に流れ落ちるために、雨期には手を付けられない程の暴れ川となり、乾期には川底も干上がる有様である。農業生産も天候任せで極めて不安定、低水準であった。

 台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この地を台湾の穀倉地帯に出来ると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げた。
 台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張巡らせるという壮大な計画だった。この計画には、地元嘉南の農民達も熱い期待を寄せ、出来る限りの経費と労力を自分達で負担すると迄書かれた嘆願書が何度となく、総督府に提出された。

 予算は総額4,200万円、これは当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠であった。内地も米騒動等で大変な時期だったが、1200万円を国庫補助し、残り3000万円を地元農民等利害関係者が負担することになった。

東洋一のダム

 八田が計画したダムは、満水時の貯水量1億5000万トン。これは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当する。東京都民の水瓶となっている広大な狭山湖を訪れたことのある人は多いだろうが、これは烏山頭ダムの数年後に完成し、その貯水量は1952万トン。烏山頭ダムは実にその7.5倍である。

 ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅33.3メートル、高さ51メートル。これを長さ1.35キロメートルに亘って、盛り土で造り上げる。土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法を我国で初めて採用する。

 烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘る。これで毎秒50トンの水を流し込む。当時のトンネルで最大のものは東海道線の熱海の丹那トンネルだったが、それよりも15センチ大きい規模だった。

 給排水路は総延長1万6000キロ、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。更に給水門、水路橋、鉄道橋等、200以上もの構造物を作る。

 八田は大正6(1917)年から3年間、現地調査と測量を行ない、大正9年9月1日から愈々工事を始めた。11年には当時のダム建設の先進国アメリカに7ヶ月出張して、米国の土木学会の権威と議論し、また最新鋭の土木機械を買集めた。

外人の鼻を明かせてみろ

 大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工事事務所の所長として、現場に住込んで指揮を執り始めた。当時、現場で働いていた李新福と言う人は次のように語っている。

 「とにかく気宇壮大な、当時では途轍もない大きな工事でした。それと、皆が一番驚いたのは、見たことも聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役だったことです。ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現場では蒸気の機関車に牽かれたエアーダンプカーに乗ったものです」

 スチームショベルは1掬い2立方メートルで、これは人間1人が2時間掛かって掘り出す土砂の量である。その外にも、蒸気機関車、エアーダンプカーなど、八田が買付けた機械は、
1000トンを超える。

 始めの内は、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、使い方が分らない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、現場の人間には一切、使い方を教えなかったと言う。八田は、「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明せてみろ」と口癖のように言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械が唸りをあげて、土砂を運ぶようになって行った。

現場には作業員やその家族2000人が住み着いた。学校や病院までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くまでこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたという。

「仲間を失った」

 12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガス爆発事故が起った。90メートル掘進んだ所で石油が噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して爆発したのである。日本人、台湾人合せて50余名の死者が出た。

 八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走した。八田が何時もの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田の言葉を押戴くように聞入り、嗚咽したと言う。八田の「仲間を失った」という悲し みが自然と伝わり、その心情が遺族の胸を打った。
 工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人達は、「八田與一は俺達の親父のようなものだ。俺達のために、台湾のために、命懸けで働いている親父がいるんだ。俺達だってへこたれるものか」と、逆に八田を励ました。

 八田は工事が終りに近付いた昭和5年3月、工事のために亡くなった人々とその遺族等134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混って刻まれている。こんな所にも、八田の分隔てのない仲間意識が窺われる。

ダム完成

 翌12年9月、関東大震災が起った。死者10万余、全壊家屋12万8000という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30%を復興支援の財政援助に申し出た。その結果、烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇せざるを得ない事態に追込まれた。

 3年間苦楽を共にして来た仲間を解雇することは、八田にとって身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探すために、総督府の伝手を辿ったり、業者の縁故を頼って奔走した。見付けた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して再雇用するという条件を付けたと言う。嘉南の人々に今も語り継がれているエピソードである。

 このような危機を乗越えて、工事が完成したのは、昭和5(1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い歳月が流れていた。1億5000万トンの水を入れるのに、直径9メートル近いトンネルでも、40日余り掛かった。

 5月10日から満々と水を湛えた烏山頭ダムの竣工を祝う祝賀会が3日間に亘って開かれた。地元民が招待客3000人を超えて集まったため、会場をもう1カ所増設して収容した。屋台や特設の芝居舞台が賑わい、花火が打上げられ、夜は提灯行列迄繰出された。

 アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。

農作物の増産

 祝賀会が終った5月15日、烏山頭ダムからの給水が始まった。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メートルの放水口6本から、ゴーという凄まじい音を立てて、水が流れ出して行く。そして精密な測量に基付いて、勾配1%と殆んど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れて行った。しかし15万ヘクタールの土地に張り巡らされた全長1万6000キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗る迄には3年掛かった。

 また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。

 計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年掛かった。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7000石が65万7,000石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に伸びた。地元農民の増収金額は年間2000万円以上に達し、彼等が負担した事業費2739万円の返済も容易であったろう。なお総督府の補助金は2674万円に上った。

八田夫妻の最期

 烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。台湾が更に発展して行くためには、現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市 内に作った。この学校は年々発展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出している。

 大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向った。灌漑の専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務だった。

 5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、遥か離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。7月16日、総督府葬を以って荼毘に付された。享年56。

 昭和20年、台北でも空襲が酷くなると、妻の外代樹は子供達と烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出立ちで、烏山頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹仲良く暮して下さい」という遺書が机の上に残されていた。享年45。

「偉いおじさん。台湾人の恩人」

 嘉南の農民達は、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されている。

 昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金属類供出が呼び掛けられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、地元民が隠して保管していたのが見付かった。蒋介石政権の元で、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であったが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置された。

 「百年ダムを造った男」の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した際に、近くの官田小学校にも取材に訪れた。ダムの工事中に作られ、八田の子供達も通った六甲尋常高等小学校がこの官田小学校の前身であった。

 教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田のことを教えているという。通訳を通じて、人懐こい子供達に聞いてみると、殆んどの子供達が八田のことを知っており、「偉いおじさん。台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。

 「日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つのは大変良いことだと思います。それと、八田技師は政治とは何の関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけのダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきですね」
 (文責:伊勢雅臣)


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日本は何故戦争に負けたか

 日本が何故、先の大戦で負けたのか。国力の圧倒的な差が原因だと見るのが一般的でしょう。戦えば敗けることは分っていたが、戦わなくても国が滅びる状況に追詰められて開戦に踏切ったのが実情です。
 しかし、北野史観は、そうなる前にどの時点で選択を誤ったのかを独自の視点で明確に指摘しています。これは二度と同じ間違いを繰返さないために大事な処です。今日は、「クレムリン・メソッド」からその部分を掻い摘んで御紹介させて頂きます。

1.桂・ハリマン協定破棄

 1905年、極東の小国日本は世界最強の陸軍国家、帝政ロシアとの戦いに辛うじて勝利します。
・ 勝因の第一は日本国民が一丸となって死力を振って戦ったこと。
・ 第二は当時の覇権国イギリスと同盟関係にあったこと。
・ 第三はアメリカが資金面で巨額のサポート(外債購入)をしてくれたこと。特にモルガン商会やクーン・ローブ商会。 
・ 第四はアメリカ政府が日露講和条約の仲介をしてくれたこと。(日本はこれ以上戦争継続が不可能なところ迄来ていた)

 ハリマンとはアメリカの鉄道王の名で、クーン・ローブ商会の支援を受けていました。彼はポーツマス条約によりロシアから日本に譲渡された南満州鉄道の共同経営を要求します。維新の元勲・井上馨や伊藤博文等は直感的にハリマンと組んでも良いと判断していました。
 しかし、時の外務大臣小村寿太郎等が強く反対し、桂主相や元老達の意向を押切って、この話を反古にします。日本の財界か軍部の何処かが満州の利権を独占したかったのでしょうか? これでアメリカは激怒します。折角、日露戦争で味方についたアメリカを目先の利益に捉われて敵に回してしまったのです。その2年後の1907年、アメリカは対日戦争計画「オレンジ・プラン」の策定を開始します。

2.日英同盟破棄

 1914年、第一次世界大戦勃発。イギリスは同盟国日本に「陸軍を欧州に派遣してくれ!」と何度も要請しました。
しかし、海軍はこれに応じたものの、陸軍は一兵も出しませんでした。
これとは対照的に、アメリカは南北戦争以来となる徴兵制を復活させ、次から次へと兵力を欧州に送り続けました。これで覇権国イギリスに対する日本とアメリカの立場が逆転し、1921年、日英同盟の廃棄が決定されます(失効は2年後)。替って米・英は一体化し、後にチャーチルの要請によりアメリカ(フランクリン・ルーズベルト大統領)が参戦する伏線になります。真珠湾奇襲はその名分を作るための陰謀でした。

 以後、日本は国際的な孤立を深め、1932年満州建国、1933年国際連盟脱退、1937年支那事変(日中戦争)、1941年日米開戦と亡国への道を突進みます。

 さて、今の日本の状況は、かってのロシアが中国に、覇権国イギリスがアメリカに、新興国アメリカがインドに替っていると見ることが出来るでしょう。
日本は先ず、アメリカの代りに中国と戦わないようにすることが大事です。日露戦争はイギリスのバック・パッシングだったという側面もあります。
 そして米中が戦えば(経済情報戦は既に始っていますが)日本は同盟国アメリカへの支援を惜しんではなりません。場合によっては国内の反戦勢力を押切って自衛隊を出動させることも必要でしょう。アメリカ1国で中国に勝てるとは限らないからです。この場合、反戦は再び国を滅ぼすことに通じます。その前に日米印豪が主力になって同盟し、ロシアが中国を助けないように手を打って置く事が必要です。それに加えて現在進行中の経済情報戦が成功すれば、中国共産党政権は戦わずして崩壊するでしょう。


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台湾人は日本人として戦った(李登輝)

 現在の台湾政府は、日本軍と戦った蒋介石の国民党中華民国が、戦後、国共内戦に敗れ、台湾に逃れて出来た政権です。
韓国人も、大戦中は日本人として戦ったのであり、戦後、独立戦争を経ることなく、独立したのです。抗日戦争などやっていません。


李登輝氏「日本人として戦った」 寄稿に台湾与党怒る
  2015年8月23日23時37分      朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASH8R5G0HH8RUHBI00X.html

 第2次世界大戦中、台湾人は日本人として「祖国」のために戦った――。
台湾の李登輝元総統(92)が日本の雑誌に寄稿した内容に、当時中国で日本と戦い、その後台湾に移った与党・国民党が猛反発している。
同党の総統候補、洪秀柱(ホンシウチュー)氏から「私が負けたら、台湾は日本に売られる」との発言まで飛び出した。

 台湾は日清戦争の結果、1895年から1945年まで日本に統治された。
旧制台北高校から京都帝国大学に進み、日本軍に従軍した李氏は、月刊誌Voice(9月号)に寄稿。「70年前まで日本と台湾は『同じ国』だった……台湾が日本と戦った(抗日)という事実もない」。「当時われわれ兄弟は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」などとした。

 寄稿内容を台湾紙が取上げると、抗日戦争勝利の記念行事開催に力を入れる馬英九(マーインチウ)総統は20日夜、「台湾を裏切り、人民を辱める発言」と激しく批判、李氏に発言の撤回と謝罪を求めた。
中国との統一派とされる洪氏も繰返し批判している他、同党立法委員からは李氏が元総統として受ける礼遇を剥奪(はくだつ)すべきだとの声が上がる。(台北=鵜飼啓)


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終戦の詔勅


〔大東亜戦争終結の詔書〕

画像転載元: (https://www.youtube.com/watch?v=TDgOFsH8PZo


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終戦の聖断

「チャンネルNippon」
史料紹介―最後の御前会議における昭和天皇御発言全記録
            (迫水久常氏 原テープは国会図書館に在)              
http://www.jpsn.org/report/6267/
 
 70年前の8月9日、長崎に原爆が落された日の夜、皇居地下壕内でポツダム宣言(無条件降伏の勧告)を受諾するか否かを決める御前会議が開かれていた。
出席者は昭和天皇、鈴木貫太郎首相阿南(あなん)陸相梅津陸軍参謀総長平沼枢密院議長米内(よない)海相豊田海軍軍令部総長東郷外相の八名の他、迫水書記官長、陸海軍軍務局長、内閣綜合計画局長の四名が陪席した。(赤が徹底抗戦派青が降伏派 
 机上には甲乙二つの意見書が置かれていた。
甲案は、東郷外相が書いた条件(天皇制存続)付降伏受諾案で、乙案は阿南陸相が書いた、甲案に更に三つの条件を加えたもので、連合国側が飲む筈もない事実上の徹底抗戦案であった。
 論議は尽きなかったが、鈴木主相は自分の意見を述べて決を採る代りに異例の聖断を仰ぐ作戦に出た。それ以外に内乱の流血を回避し、一億玉砕・徹底抗戦を唱える陸軍を沈黙させる手段は考えられなかった。
 その時、天皇が語った言葉は以下のとおりである。
昭和天皇については色々言われていますが、この時の決断が数百万、乃至数千万人の日本人の命を救ったことは事実である。
天皇の他には老宰相 鈴木貫太郎と、外務大臣 東郷茂徳の功績が記憶さるべきである。
因みに、ソ連が現地大使館に宣戦布告して来たのは8月8日深夜(無線封鎖のため、東京には届かない状態で9日午前0時にソ連軍の侵攻開始。日本政府が正式通告を受取ったのは10日)のことであるから、当に一刻の猶予も出来ない局面であった。

 天皇陛下: 「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見(条件付降伏受諾案)に同意である。(註: 会議の前に迫水書記官長がポツダム宣言を読上げたから、無条件降伏であることは理解されていた)

 大東亜戦争が始まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。
今、陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。
 先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後、侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆んど出来ていないようである。
 又、先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行渡って居らない有様である事が判った。
 このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。
そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。自分の任務は祖先から受継いだこの日本を子孫に伝えることである。
今日となっては一人でも多くの日本人に生残っていて貰って、その人達に将来再び起き上って貰う外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。
 それにこのまゝ戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。
自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない、堪え難きこと、忍び難きことであるが、この戦争を止める決心をした次第である」


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日中戦争二つの真実

「zakzak」
【中国の本性】日中戦争2つの真実 侵略戦争ではなく人道的、道義的介入だ
(黄文雄)
               2015.06.06
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150606/frn1506061530002-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150606/frn1506061530002-n2.htm

 「日中戦争は、中国に対する『侵略戦争』である」とは、戦後、米国と中国、ソ連が決めつけたことである。
日本の保守派にも「侵略戦争だった」と思う人は多い
ようだが、私はテレビの討論会で「中国内戦に対する日本の人道的、道義的介入」だと発言したことがある。

 中国の歴史を振返ると、満州人の清王朝が1644年に首都を北京に遷(うつ)してから、康煕、雍正、乾隆の3帝が約130年間、有史以来初めて人頭税を減免した。
最も幸せな時代だったとも言われているが、その後、人口が急増して資源の争奪戦が激化し、自然と社会環境は悪化し続けた。

 18世紀末の「白蓮教徒(びゃくれんきょうと)の乱」から、20世紀の「文化大革命」まで、中国では事実上、約180年間も内戦が続いた。
「太平天国の乱」(1851年)では人口の5分の1、19世紀末の「回乱」(=イスラム教徒の蜂起)では人口の10分の1が消えた。
1911年の辛亥革命後、清帝国が崩壊して中華民国の時代に入ると、内戦はさらに激化した。中華民国の評論家、林語堂の説によれば、国民党と共産党が戦った20世紀の「国共内戦」でも「3000万人が消えた」という。

 日中戦争について、中国は「八年抗戦」と名付けているが、国民党と共産党のプロパガンダに振回されてはならない。日中戦争の真実については、少なくとも以下の2つを指摘しなければならない。

(1) 日本が中国内戦の泥沼に引きずり込まれてから起きた本格的戦闘は、盧溝橋事件
(1937年)から、武漢陥落(38年)までの1年余に過ぎない。
その後、日本の支援を得た北京政府や各政府は、中国の近代化に努めた。
道路や鉄道、港湾などのインフラ建設を進め、内戦で荒廃した農村を再建し、国民を飢饉から救済した。
 医療・衛生環境を整備して疫病を退治した。
伝統文化を保存し、学校を建設した。治安を維持し、衰亡の危機にあった中華世界を再生させた。
逆に、インフラなどを破壊したのは、国民党と共産党の武装ゲリラ勢力である。

(2) 40年代に入ってからの日中戦争は、実質的には北京政府を始め、各政府を統合した南京(汪兆銘+日本)、重慶(蒋介石+米英)、延安(毛沢東+ソ連)の3政府による、日本と米国、及びソ連との代理戦争だった。
日中戦争の背後で、南京政府の置かれた地域では経済と治安が非常に安定していた。

 ところが大東亜戦争終結後、たった7カ月で米価が500倍近くも騰り、ハイパーインフレになって国共内戦が再燃した。(蒋介石と毛沢東の、実質米ソの覇権争い)
中国を主軸とする代理戦争は、辛亥革命(1911年)から始まり、戦後の国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム、カンボジア内戦など延々と半世紀以上にも亘る。

 日中戦争が、米ソ以外に日英独も加えたアジアの代理戦争であるという20世紀の歴史を見逃しては、本質を見失ってしまう。

 ■黄文雄(こう・ぶんゆう) 文明史家、評論家。1938年、台湾生れ。64年、留学のため来日し、早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院西洋経済史学修士。現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授。1994年、台湾ペンクラブ賞を受賞。著書に「中国人が死んでも認めない捏造だらけの中国史」(産経新聞出版)、『米中韓が仕掛ける「歴史戦」』(ビジネス社)など。


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現憲法は誰が作ったか

大森 実 著 『日本はなぜ戦争に二度負けたか』 中央公論社(1998年)
 から要点を抜書きしてまとめました。

p143~p153 より

 1946年2月3日、マッカーサー元帥は日本側から提出された松本委員会草案を拒否し、元帥自身の考えをメモ書きした「新憲法の三原則」をホイットニー民政局長に手渡した。
その内容は以下のようなものだった。

1.天皇は国家元首である。天皇は世襲君主とする。天皇の義務と権力は、憲法が定める人民の基本的意志に従って実施される。

2.国家主権の力としての戦力は廃棄される。日本は紛争と国家の安全保障のための戦力否定を行なう。日本は、今世界を席券しつつある防衛と、安全のための高い理想に頼らねばならない。
日本の陸、海、空軍は永久に認められない。日本に軍隊の戦闘力が与えられることは永久にない。

3.日本の封建制度は停止される。華族の権限は、天皇の家族を例外として、生存中の生命を超えて継続されない。貴族の権限も中央政府と地方政府から直ちに排除される。予算は英国の制度を模範とせよ。

 そして、この「マッカーサー三原則」に沿った憲法草案をGHQで独自に準備するよう指示した。(期限は1週間)
命令を受けたホイットニー准将は、GHQのスタッフと共に夜を徹する突貫作業で草案を書き上げ、マッカーサー元帥の承認を得たのは2月12日のことであった。
 翌13日、ホイットニー准将は草案起草に当ったケーディス大佐、ラウエル中佐、ハッシー中佐の三人を引連れて東京麻生の吉田外相邸を急訪した。
吉田邸には幣原主相と吉田外相の他に、松本憲法大臣と白洲次郎がいた。(事前に通報があって待っていたものと思われる)
 ホイットニーは彼らに草案を手渡し、「この通りやれとは言わないが、やるべき基本原則は全部書いてあるから読んでくれ」と言って読んでいる間、庭で待った。

 「検討する用意が出来た」と、白洲が苦渋に満ちた石のような表情で呼びに来て部屋に入ったホイットニーは、「マッカーサー元帥は、これに劣る案はいかなるものも考慮に入れない。この案の基本方針に反しない些細な修正には応じる」と言ったそうだ。
日本側が草案を検討するために与えられた時間は僅か15分だった。

 こうして殆んど問答無用の形で与えられたGHQの草案に沿って作られたのが現在、日本の平和主義者が金科玉条のように有難がっている平和憲法である。その目的が何であったかは、バカでも解る。

 尚、特記事項として、戦力不保持の九条2項の前に、原案にはなかった「前項の目的を達するため」と言う一句を挿入し、後に「自衛のための戦力なら良い」と解釈出来る余地を残したのは芦田 均(当時の衆院憲法改正委員会委員長)であり、これを自身に与えられた権限で即座に承認したのはケーディス大佐だったという。
 そのケーディスは当時、自衛権など全く考えもしなかったと後年、大森のインタビューに答えている。ある意味、芦田に嵌められたと言っても良い。
だが、そのお蔭で日本は改憲しなくても軍隊を持てるようになった。
もし、日本に自衛隊がなかったら、と思うとぞっとする。永久にアメリカの言いなり奴隷である。
 自衛隊は世界一精強な軍隊にしたら良い。そうすれば、武道の達人にちょっかいを出す無法者はいなくなる。国際社会でも発言力を増すだろう。
そう言えば、オレンジャーが「愛と力」というメッセージを出していた。
平和は愛だけでも、力だけでも達成出来ない。
今、愛と力を統合出来るのは、アメリカ人でも中国人でもなく、日本人だけだ。



宇宙の本質を語る宇宙人「オレンジャー」からのメッセージ
 愛と力       2015-07-28
http://ameblo.jp/oranger13/entry-12055361730.html

 俺はオレンジャー!
愛とは一体化であり、非効率なこと。
力とは分散(?集中か)であり、効率を求める。

 愛と力は其々が極を形成し、どちらが良いという訳でもなく、自己の中でスウィングして(揺れて)いる。
君達は答えを求め過ぎ。固定の答えなど存在しない。

 自然界を見て欲しい。
何一つ固定されているものは存在しない。
全てのものは揺れ動き、その中で動的平衡状態を作る。
その最たるものが君達の心であり、体なんだ。
この感覚を是非掴んで欲しい。

 今日はこんなところだ。 じゃ!


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インドネシアの開放

なわ・ふみひと の 「Browse 365」 
世界が愛した日本』 四條たか子・著 井沢元彦・監修 竹書房  
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1307-19.html
 より抜粋

〔植民地からの解放〕 

  インドネシアに於けるオランダの植民地政策は巧妙なもので、先ず教育の機会を与えない愚民政策を推し進めた。
「アジア人は白人に劣る」と刷り込むことで、白人の支配から抜出すことは不可能だと思い込まされたのだ。
また、一部原住民をキリスト教に改宗させて軍に採用し、民族の族長を通じた間接統治を行なって氏族の分断を図った。
集会や団体行動は一切禁止され、多数の民族語を統一した標準語を作ることも禁止された。
  20世紀になるとようやく圧政への反動から倫理主義政策が採用され、下級官僚として使える程度の教育を施す学制が作られたが、オランダ人との混血児を優遇して、支配者と被支配者の緩衝材とする政策なども露骨に実施された。
それでもこの倫理主義には、民族意識に目覚めた知識人を生む効果があったのである。
  日本のインドネシア侵攻は、当にそういう時期に始まった。
1941(昭和16)年12月8日、日本が真珠湾攻撃に踏切った直後、オランダは日本に宣戦布告した。
日本はオランダ領東インドの攻略を『蘭印作戦』と名付け、1942(昭和17)年1月11日にボルネオ島のタラカン、セレベス島のメナドへの攻撃を皮切りにジャワ島を目指した。
スマトラ島のベンクルに幽閉されていたスカルノはじめ、ハッタ、シャフリールら、当時のインドネシアの代表的な指導者を解放した。
  そして今村均中将が率いる陸軍の主力第16軍は3月1日に上陸を開始、僅か9日間でオランダとアメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍を降伏に追込んだ。
  日本軍は侵攻の前からインドネシアに向けたラジオ放送で、インドネシアの解放を呼び掛け、『インドネシア・ラヤ』(後の国歌)を繰返し流した。
また、当時のインドネシアでは、「長い間白人に支配された後、北から来た小柄な黄色人が白人を追出し、その後、幸福な時代が来る」というジョヨボヨの予言が信じられていたのである。
日露戦争に勝利し、アジアの解放を主張する日本には、この予言の体現者となる期待が掛けられていた。
そして実際に、350年に亘ってインドネシアを支配して来たオランダが、たった10日足らずで降伏したという事実は、驚きと感謝を以って多くのインドネシア国民に歓迎されたのである。
  しかし、インドネシアの人々にとって、日本人は未知の存在だった。
憎むべきオランダを追い出したとは言え、日本は単にオランダに代る存在に過ぎないかも知れない。そんな不安も亦多くの国民に共通のものだった。
それを払拭したのが、今村司令官を通じて出された『布告第1号』である。

  日本人とインドネシア人は同祖同族である。
  日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする。
  同一家族、同胞主義に則って軍政を実施する。


  『民心の安定』こそ第一と考えた今村が強い信念をもって、強圧方針を唱える軍政担当者を説得して掲げたものだった。
「日本が掲げた“八紘一宇”とは同一家族同胞主義なのに、侵略主義のように誤解されているところがある。
軍事力を持っている我が軍は、何かあれば何時でも強圧を加えることが出来る。だから出来る限り、緩和政策を以って軍政を実行することとする」
  それでも、今村の決断には猶強い反対があり、元内務大臣の児玉秀雄ら3人が統治政治顧問として陸軍大臣から派遣されて来た。
今村は上陸以来のインドネシアの人達の日本軍に村する好意と協力ぶりを説明し、児玉らに現地視察を勧めたのである。
 「何処へ行っても日本の内地と変らない。原住民は日本人に親しみ、オランダ人は敵対を断念し、華僑は迎合を強めている。産業の回復も早く、軍事物資の調達成績も優れている。ジャワでは強圧政策は必要ない」
児玉を含む3人の顧問はそう言って感心した。
陸軍省では更に武藤軍務局長を派遣して強圧策の必要性を説いたが、今村はそれを見解の相違だと突っ撥ねた。
  「新しい統治要綱が発令されれば軍紀に従うが、自分の起草案に悖(もと)るものに屈することは耐えられない。新要綱の指令が出る前に免職を計らって下さい」
今村は、当に自身の首を賭してジャワ軍政の基本方針を貫いたのである。


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大東亜戦争が残したもの

なわ・ふみひと の 「Browse 365」 
かくて歴史は始まる』逆説の国・日本の文明が地球を包む 
 渡部昇一・著 (クレスト社) より
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1304-20.html

“白人神話”を叩き潰した日本軍の活躍

 これほど根深いものであった人種差別が、第二次世界大戦によって根底から崩れて行った。
戦後、白人達は、何とか昔の状態に戻そうとしたが、既に後戻りが出来なくなっていることに、はしなくも気付かされたが、それは日本の所為であった。
 例えば、東南アジアの状況を考えてみれば、良く分る。
日本軍は敗戦とともに東南アジアから引き揚げた。イギリス、フランス、オランダなどはこの地を戦前の状態、すなわち植民地に戻すべく、そこに軍隊を送り込んだ。独立運動の高まりを抑圧するためであった。
 戦前なら、独立運動は直ちに鎮圧される筈であった。事実、コロンブスの新大陸発見以来、有色人種の白人に対する反乱は数多くあったが、皆、簡単に潰されて来た。
 しかし、日本軍が引揚げた後の東南アジアでは、そうは行かなかった。それは、何故だろうか。
日本が東南アジアに進攻し、列強の植民地を占拠した時が、日本軍最強の時期であった。
この時の零戦は、撃墜不可能の戦闘機と言っても良かった。
零戦はイギリスやアメリカやオランダなどの戦闘機を圧倒的な力で叩き落した。これに対して、日本軍の損害はゼロに近かった。(当時、零と格闘するな、姿を見たら直ぐ逃げて良い、という指示があったという)
 また、海上に於いても、日本軍はまことに強力であった。七つの海を制したイギリスの艦隊も、日本の敵ではなかった。イギリス東洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズやレパルスも、為す術もなく海の底に沈んでしまった。(マレー沖海戦) 
オランダやアメリカの艦隊も同様であった。(スラバヤ沖・バタビヤ沖海戦) 
ところが、日本の軍艦は一向に沈まない。
 この圧勝を目の当りにした時、東南アジアの人達は、自分達が従来持っていた白人に対する概念が音を立てて崩れて行くのを実感したのである。しかも、パレンバン(スマトラ島)やメナド(セレベス島)の攻略において、日本軍は落下傘部隊まで使った。
 紺碧の空から白いものが降って来る。それが実は人間であると知った現地の人達は、神様が降って来たとは思わないまでも、そんなことが出来るのは白人以外にはないと思ったに違いない。
 ところが、降りて来たのは自分達と同じ顔の日本人であった。しかも、その日本兵達が、忽ち現地の白人を一掃してしまったのだから、天地が引繰り返る思いであったろう。

インディアンの誇りを奪った白人の残虐

 日本を除く世界中の有色人種達は、教百年に亘って「白人に対しては絶対に手を上げてはいけない」ということを親達から教え込まれていた。それは、一種の本能になっていた観があるほどだった。
 勿論、有色人種が白人に対して反乱を起したことは過去に何度もある。最も有名な例はアメリカ・インディアン達の勇敢な抵抗であり、これは西部劇でも知られているとおりである。
 ところが、白人達は自分達の仲間が殺されると、徹底的にインディアンのその部族に報復した。
さすがにこれは西部劇では描かれることは少ないが、相手のインディアンの部族を、男ばかりか女・子供まで、全て虐殺したことも稀ではなかった。
 戦場に於いて白人を一人殺したばっかりに、部族全員を虐殺されては敵わない。それで、絶対に白人に手を出してはいけないということがインディアン達の不文律になった。
30年も経たぬ内に、西部劇に出て来るような反抗するインディアンはいなくなったのである。
あれほど颯爽たるインディアン達も、白人の圧倒的な力の前に、皆、腑抜け同然になってしまった。白人にとっては絶対に安全な存在になった訳である。
 これと同じようなことが、東南アジアでも何百年にも亘って行なわれて来たのである。
既に白人に対して抵抗しようと考える者は誰もおらず、それこそ、白人と目を合せることすら憚られるようになっていた。
 そこにやって来たのが、自分達と同じ顔をした日本人であった。先祖代々、何百年間も「絶対に手を上げてはいけない」と言われた白人を武力で一掃し、捕虜にし、土木工事などにこき使ったりした。
 恐らく当時の日本人のことであるから、働きの悪い白人捕虜の尻を蹴飛ばしたり、ほっぺたを張るようなこともあったであろう。それを見た時、現地の人々は長い悪夢が一挙に覚めるような思いがしたに違いない。

「見る」ことから始まった東南アジアの独立運動

 悪夢も、一度覚めてしまえば、もう二度と元には戻らない。
だから日本軍がいなくなってから、再び白人達が軍隊を送って来ても、もう以前のようにはならなかった。今度は絶対に屈しない。また、日本軍の中には引揚げを拒否し、現地の独立運動に参加した兵隊達もいた。
 このころの状況について、あるイギリス人は次のように書いている。
「かつてのマレー人は、実に気立ての良い民族だった。何を言いつけても“イエス・サー”、何を命じても“イエス・マスター”と言っていた。ところが、僅か3年半ぐらい日本人と一緒にいただけで、皆根性が悪くなってしまった。今や何も言うことを聞かなくなった」と。
 この話ほど、東南アジア独立の意味を端的に教えてくれるものはない。
植民地の独立は、民族自決などというスローガンによって為しえたものではない。白人の人道主義も、社会主義や資本主義も、またアラーの神も植民地廃止には何の関係もない。キリスト教は植民地を作るのには貢献したが、解放には役立たなかった。
 有色人種が持っていた白人に対する劣等意識を吹飛ばしたのは、目の前の現実であった。有色人種の日本人が、白人を戦場において倒すという極めて即物的な事実が、東南アジアの人々の観念を変えてしまったのである。
 「見る」ということの重要さを、私は既に本書の中で何度も強調して来た。見るということは、単純素朴なことのように思われがちだが、これほど強力な原動力は他には見当らない。「やれば出来る」と口を酸っぱくして何度も言うよりも、目の前で1回やって見せることのほうが大事であり、歴史を動かす力と為り得るのである。
 現に、明治維新による日本の近代化を見て、或いは日本の留学制度の成功を見て、アジアの国々は動いた。
更に、日露戦争の勝利を見て、他の有色人種の人々は独立の光明を見出した。
これが見ることの力でなくて何であろう。
東南アジアの人々は、日本が白人国に勝ったことを見て、戦後の独立運動を始めるきっかけを得たのである。


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正しい歴史認識

 今から20年前、時の総理大臣は、戦後50年の節目に当り、歴史に残る「村山談話」を発表しました。
その要の部分は、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」ことに「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します」というものです。
 この文言は、今でも時折テレビから流れて来ますが、これを聞いて「バッカじゃないの」と思わない方は、未だに進駐軍(GHQ)以来の被洗脳状態にあると言うべきです。
 「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」のは日本よりも、圧倒的に欧米の白人国家と中国の方です。
彼らこそ、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」するべきです。
 そして、中国と韓国が何かにつけて村山談話を「正しい歴史認識」として持ち出し、日本に圧力を掛けるのは全く「ためにする(いちゃもんをつけて金を巻上げる)」やくざの所業です。
当時の日本に「植民地支配と侵略」の要素が全くなかったとは言いませんが、日本だけが未だに非難される謂れは断じてありません。
 韓国は戦わずして日本に併合されたのであり、日本から植民地支配を受けた訳ではありません。台湾や沖縄と同じ立場であり、敗戦後、労せずして独立したのです。
中国(当時は清)も同じで日本の植民地支配など受けていません。清はロシアの脅威に対して自らは戦わず(その力もなく)、日本が自国の存亡を賭けて満州で戦ったのです。
 日本は、本当は満州から支那全域に戦線を拡大すべきではなかったのですが、蒋介石は米・英の、毛沢東はソ・米の支援を受けて敵対、挑発して来たから日本軍は止むを得ずこれと戦ったのです。(欧米に日本を滅ぼす意図があるなら、当然そうなるように謀る筈)
しかし、大戦により日本は負けはしたものの、彼等の意に反して、アジアの国々は再び白人国家の植民地に戻ることはなく、悉く独立しました。
それは日本が多大な犠牲を払って欧米と戦って見せた実地教育の結果なのです。(これについては別に記事をアップする予定)
 ところがあろうことか、今度は中国が近隣諸国(チベット、ウィグル、モンゴル、満州)を次々と侵略して自国の勢力圏(自治区等)に編入して行ったのです。
ベトナムにも80万人もの大軍を動員して侵攻しましたが、敗北して撤退しました。(ベトナムはアメリカにも負けなかった)
 チベットのような平和な仏教国の4人に一人が殺戮され、ガソリンを被って焼身自殺するしか抗議の手段がない、という現状を見れば、日本の左翼的な、そしてスピ的な平和主義が如何に危険なものか判ろうというものです。
 現在でも尖閣諸島を自国の領土と主張し、南沙諸島に軍事基地を建設するなど、その侵略的体質は全く変っていません。
白人国家と中国こそが植民地主義国家であり、彼等が日本を植民地主義国呼ばわりするなど、バカも好い加減にせよというものです。
 
 日本は欧米に対しては勿論のこと、中・韓を含めてアジアの国々に詫びる必要など何もありません。
従軍慰安婦問題や南京大虐殺等は事実を大幅に歪めた政治的プロパガンダに過ぎません。


参考記事:  
マスコミが伝えない事実と解説 武田邦彦(中部大学)  
今を知る003 戦後**年談話
    2015年04月24日
http://takedanet.com/archives/1025243072.html

 歴史を勉強せず、ただ学校で習ったことが正しいというレベルだった村山首相が「反省する」などという談話を発表したものだから、こじれにこじれている。
日本人は、こちらが謝れば相手は憐憫の情で許してくれるだろうと思っているが、日本民族以外は謝ると居丈高になるというだけのことだ。
そして今、日本は10年毎に首相談話を出して謝っている。でも安倍首相は(反省と謝罪という)談話を出すべきではない。

〔理由〕
1) 日本は戦争で、有色人種民族を独立させた。だから素晴らしい功績がある。
2) 日本が戦ったのは白人だけである。
3) 日本が中国と戦ったのはアジアで白人側についたのは中国だけだったからだ。
4) だから中国は白人国家である。
5) しかも日本は現在の共産中国とは殆んど戦っていない。
 第二次世界大戦で「日本が悪いことをした」というのはアメリカの洗脳であって、事実ではない。(註: 事実は真逆である)
ヒットラーと昭和天皇は全く違う。それは昭和天皇に権限がなかったというのではなく、ドイツはともかく、日本は世界に良いこと(白人の植民地を解放した)をしたのであって、反省することはない。
 日本を批判している中国も韓国も日本が白人と戦ったから、現在、独立しているのであって、中国も韓国も白人の植民地政策に対して命を捨てて戦ったことは無い。
誤った歴史観に基づいた談話を日本の首相が発言するのを止めにするのは当然である。(平成27年4月21日)


テーマ : 考察
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日本に戦争責任はない

 この短文は、武田邦彦氏の主張の核心とも言うべき部分です。私もこれを支持します。
大東亜戦争とは、アトランティスとムーの戦いの再現だったのです。
 中国と韓国は、未だにアトランティス陣営(欧米)の側に身を置いて、ムーの正統な末裔である日本に攻撃を続けているのです。
中国の本質は、現在の南沙諸島に対する行動を見れば良く解ります。
韓国の本質は従軍慰安婦問題に良く現れています。
どちらも、他のアジア諸国と同列に扱える、まともな相手ではありません。
 これから、日本が世界のリーダーとなって行くのであれば、単なるスピリチュアルな甘っちょろい感覚だけでは無理です。
悪を手玉に取れるほどの強かさと、悪をも心服させるほどの大きなマコトが必要となるでしょう。


「マスコミが伝えない事実と解説」 武田邦彦 (中部大学)
最期の一撃 第十七話 二つの歴史の証言
       2015年06月14日
http://takedanet.com/archives/1030815869.html

 昭和16年9月6日の御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製を読み上げられ、永野軍令部総長が発言を求めた。
昭和天皇:
よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ
永野軍令部総長:
政府側の陳述によりますれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国が必至であるということでありますが、戦うも、また亡国であるかも知れません。
 すなわち、戦わざれば亡国必至、戦うも、また亡国を免れないとするならば、戦わずして亡国に委ねることは身も心も民族にとって永遠の亡国になりますが、戦って護国の精神に徹するならば、たとえ戦いに勝たずとも、祖国護持の精神が残って、我々の子孫は必ず再起三起するでありましょう


 この御前会議の決定を受けて、9月7日、開戦の決意をしたことをアメリカ駐在の野村大使に暗号電報で訓令した。
しかし、既にこの暗号電報はアメリカ側によって解読され、アメリカは日本が開戦準備を始めたことを知っていた。
それにも拘らず、アメリカは12月まで無理難題を要求し続け、(裏切り者の山本五十六による)ハワイ奇襲(アメリカを参戦させるための罠)の情報も隠匿していた。
   ・・・・・・・・・
 昭和16年に始まった日米交渉で、日本はアメリカが「友好国」であると思っていたが、アメリカは「日本を挑発して戦争に持ち込む」計画であった。
アメリカと日本の戦力の元になる工業力は比較にならず、日本を1.0とした時のアメリカの力は、鉄鋼で24倍、アルミが8倍、石油は日本にないから比較も出来ず、石炭12倍、電力5倍、自動車生産力50倍、船舶2倍、航空機8倍、一般工業力5倍、重工業力20倍であった。
 だから永野軍令部総長が言ったように(当時、世界最大の戦艦大和、武蔵と、無敵の零戦航空隊を持っていたが)「戦っても亡国」は必至であった。
しかし歴史的事実を見ると、日本は力で負けたけれど魂は屈しなかったので、戦後の復興で産業力がアメリカを凌駕するまでになった。これは「魂を失わなかった」からだった。
 そして、アジアアフリカの国々は日本が戦争をしたお蔭で独立した。
1955年に行なわれた第一回アジアアフリカ会議(バンドン会議)では、日本は次のように賞賛された。
 『よく来てくれた』。『日本のお蔭だ』。『日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々は今もイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった』(出席者談)

 戦争はアメリカと中国が(白人と手を組んで)仕掛けたものであり、日本が好んで戦争をした訳ではない
日本にとっては屈辱より誇りを優先し、むしろアメリカと中国に屈して二流国になった方がより惨めな国になったことは間違いない。
また、日本が多大な犠牲を出して白人と戦ったので、アジアアフリカ諸国は、戦後一気に独立を果した。
 「戦争責任」などは作り物であり、どこにも謝る必要は無い。
日本のおじいさん方は正しく判断し、正しく強盗団と戦い、私達に最も大切な「誇り」を残してくれた。
それが戦後の日本の発展となり、アジア、アフリカ諸国の独立につながった。
 これからは「戦争責任」という言葉を一切、口にせず、誇りを持って生きて行きたいと思う。

                                 平成27年6月13日  武田邦彦


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関が原以後の黒田如水

  黒田官兵衛孝高(号 如水)
 黒田孝高

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も次回で終りですが、関が原の合戦後、官兵衛がどうなったか、少し気になって調べて見ました。(Wikipedia 黒田孝高 より)
 意外だったのは官兵衛が最後まで熱心なクリスチャンだったことで、もしかしたらイエズス会のエージェントだった可能性があります。
であれば、下記のように切支丹や宣教師達を嫌い、官兵衛に大禄を与えなかった秀吉や、関が原の戦で官兵衛に付け入る隙を与えなかった嫡子長政と家康の処置が正しかったことになります。
 因みに、印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあるが、その時、秀吉は機嫌を悪くしてこう言ったそうです。(Wikipedia)

 「汝(孝高)は彼等(パアデレ達)を愛護し、(且つ)切支丹なるが故に予(余)が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。先の戦(九州平定時)に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時パアデレ及びイルマン(パードレの補佐役)に対する不快から、その後、豊前国の大部分と王(国主)の名称しか与えなかった事を」


関が原の戦の前後
 (註: 以下に括弧付きで日付が二つある場合は旧暦と新暦の併記)
 慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。
6月6日、黒田長政は家康の養女(保科正直娘・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。
7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが勃発した。
長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

 中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として中津城の留守居を務める密約を結び行動した。

石田三成の挙兵の知せを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞及んで集まった9000人ほどの速成軍を作り上げた。
 9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。
 城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。
それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

 道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。
母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。(石垣原の戦い

 9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。
その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛の安岐城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)を次々と陥して行った。
 国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼沈めている。
 10月14日、如水は兵5000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。
鍋島直茂と鍋島勝茂が32000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。
 10月16日、柳川の支城である海津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。
 そして11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍した時、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した

晩年と葬儀
 関ヶ原の合戦の後、徳川家康は先に嫡子、長政に勲功として筑前名島(福岡)52万3000石への加増移封をした後、井伊直政など徳川譜代の家臣や藤堂高虎の勧めもあり家康は、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った
 晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた太宰府天満宮内に草庵などを構えている。
また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津有馬温泉に、療養滞在している。

 慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。59歳。
辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。
 死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文及びロザリオを持って来るよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。
自分の死骸を博多の神父の所へ持運ぶこと、息子の長政が領内に於いて神父達に好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てることである。
 また、(嫡子長政に有能な家臣を残すために)殉死を禁止している。

 4月のある夜、午後10半頃、博多の教会の宣教師達は如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。
主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政が付添った。
如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士達は白衣を着ていた。
 墓穴は人が200人も入るほどの大きなもので、その中に着いた後、宣教師達は儀式を行い、それから如水を埋葬した。
同じ夜、長政は宣教師の許を訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀も行なっている。

逸話
 関ヶ原の戦いの後、「家康は、我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ、と三度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた(何故空いた手で刺さなかった)?」と叱責した。
野心家ぶりを表す話だが、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。
 但し、慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何も出来なかった」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのも確かである


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秀吉の朝鮮出兵

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では朝鮮出兵は無謀という扱いですが、当時の日本の武力(世界最大級)を知ると、そうでもなかったと思えます。
実際の戦闘では日本勢が勝利しており、もし、秀吉の死去がなければ、或いは「本能寺の変」がなく信長が天下を統一していたら、日本が明国を滅ぼしていた可能性は大いにあります。

「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するがごとくあるべきものなり。ただに大明のみにあらず、いわんやまた天竺・南蛮(インド・ヨーロッパや西アジア)かくのごとくあるべし」(1592年、秀吉の毛利輝元宛書状)

 その前段階として先ず朝鮮を占領して後方基地化する必要がありました。
この朝鮮の役後、日本軍との戦いで消耗した明は、万里の長城を越えて侵攻して来た女真族に攻め滅ぼされ、清帝国が成立するのです。
明治時代になってからの日韓併合、日清戦争は、長い鎖国で中断されたこの戦役の再現のようにも見えます。


文禄・慶長の役」(Wikipedia)より

抜粋再編集

 15世紀中頃から日本は長い内戦状態(戦国時代)に在ったため、豊臣秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の軍隊がいる状態となっており、これは当時の地球では明と並び世界最大規模の軍隊であった
 1543年の鉄砲伝来で日本に持込まれた火縄銃(マスケット銃)は、その後直ぐに国産化され日本国内で大いに普及していた。
当時の貿易取引書からの推計で戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたとも言われ、当時世界最大の銃保有国となっていた
 尚、当時の日本の武士人口は200万人であるのに対して、イギリスの騎士人口は3万人であった。
当時の各国の人口は、1600年の時点で、日本は2,200万人、李氏朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人であったと推測されている。またイベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050万人、オランダは150万人、ブリテン諸島全体で625万人であった。(歴史上の推定地域人口 Wikipedia 参照)

 日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃と弓を組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。
火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足な弾丸重量二匁半(約9.4グラム)の安価で大量生産の出来る比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ七割をこの二匁半筒が占めた。

 戦争の初期、日本軍は500メートル以上の最大射程を持ち、弓矢よりも貫通力のある銃の集中使用によって優位に立った。
本来の日本の火縄銃の用法は、西洋における戦列歩兵による弾幕射撃とは異なり狙撃型のものであり、射撃開始距離も1町(約109メートル)程度であったとされるが、朝鮮においてはより遠距離からの射撃戦が行われる傾向にあり、遠距離射撃による精度の低下を補うために、一斉の集中射撃も行われた。
しかし、戦争の末期になると朝鮮と明も鹵獲(ろかく)した日本製火縄銃やそれを模造したものを採用して使用数を増やし対抗した。

 一方、朝鮮の歩兵は刀、槍、弓矢などの武器を装備していた。
主力武器は弓であったが、その最大射程は120メートル程度であり、日本の弓の140メートル余よりも短かった。
しかも、兵士が弓を効果的に使いこなすためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。
 このほか、フロイス日本史には「火薬鍋(パネーラ・デ・ポールヴォラ)(手榴弾のような兵器)」「鉄製の兜」「丈夫な皮製の防具」「銅製の小型砲」「矢をつめて発射する射石砲(ボンバルダ)」などの記述が見える。
朝鮮の騎兵は、対女真用に北方配備されており、乱戦用に殻竿(からさお)と槍を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。
朝鮮騎兵の戦闘としては、忠州の戦い・海汀倉の戦いがあるが、いずれも日本軍が勝利している。
 朝鮮水軍は、高麗時代から対倭寇を目的に整備され、訓練も行われており、旧式ながら火砲を多く装備していたため、戦役前半から日本軍をよく迎撃した。

 朝鮮水軍は板屋船(戦船)という日本の安宅船に相当する大型船を用いた。有名ではあるが実体不明の亀船も、この板屋船を改造したものといわれる。他に補助艦船として中型の挟船、小型の鮑作船がある。
 朝鮮水軍は火器や弓を使っての遠戦指向だったが、朝鮮の火砲は射程が64m〜160mと短く、朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から一方的に日本船を撃破出来た訳ではない。
 朝鮮水軍が兵数で圧倒的に有利であった閑山島海戦においても交戦距離は100mに満たない距離で戦われている。
また、朝鮮の火砲は、鉄弾、石弾を複数込めて散弾の形で使うこともあったが、基本的には火箭(火矢)を撃って敵船を焼き討ちすることを主眼としていた。

 また、明の歩兵は広大な帝国内における多様な戦闘を経験しているため、様々な武器を使用した。
飛び道具として火縄銃、弓、南蛮式火縄銃、小火砲、長柄武器として槍、三又、鉄棒、射手の護身用に片手刀、その他に大砲、煙幕弾、手投げ弾などである。
 しかし、明の火縄銃や南蛮式火縄銃は日本の物と比べ射程が短く威力も弱いためあまり役に立たなかった。
但し、明軍の防具は鉄製のため守備力があり、槍も日本刀も通じにくかった。
一方、懲毖録は碧蹄館の戦いにおいて切れ味の鈍く短い刀しか持たなかった明の北方騎兵が、3~4尺の刀を持つ日本軍の歩兵に人馬の区別なく斬り倒されたとも記録している。

 明は歩兵の他に対女真用に整備された騎兵部隊(馬軍)を大規模に戦闘に投入したが、戦果は得られなかった。朝鮮は山が多く、騎兵の突撃に適した平地が少ない上、日本の火縄銃の長射程に対して騎兵部隊は不利であったためである。
また、数万の軍馬を養うのに必要な草地も乏しく、度々馬疫が発生して多くの馬匹が斃れた。

 日本軍は文禄2年(1593年)1月、漢城(現在のソウル)郊外で大軍同士が激突する「碧蹄館の戦い」に勝利するも食料貯蔵庫を焼かれ、一旦休戦する。しかし、双方欺瞞の講和交渉が続いた後、当然の如く決裂する。
 豊臣秀吉は慶長4年(1599年)に大軍を再派遣して攻勢に出る計画を発表していた。
しかし秀吉は慶長3年(1598年)8月18日、62歳で死去。その後、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。

 9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路に分ち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。(三路の戦い
迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
 泗川の戦いでは島津軍7000が数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃。明軍で火薬の爆発事故や、島津軍の伏兵戦術などにより連合軍が混乱。島津軍が大勝した。
 順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するため、新たに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍も古今島まで退却した。(順天城の戦い)
以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。
 この三城同時攻撃では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達していた。
また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。
これにより、三路に分たれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという。

 蔚山、泗川、順天への同時攻勢を退けた日本軍であったが、8月に秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力をめぐる対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。
そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、日本軍は撤収を開始する。


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中国が白人と戦わなかった理由

「マスコミが伝えない事実と解説」 (武田邦彦 中部大学) 
中国はなぜ白人と戦わなかったのか?
中国はなぜ白人と戦わなかったのか?(その2)

      平成26年9月23日
http://takedanet.com/2014/09/post_14de.html
http://takedanet.com/2014/10/post_53be.html

抜粋

 「中国は何故、白人と戦わなかったのか?」を理解するためには、「中国とはどういう国だったのか?」と「清はどういう帝国だったのか?」を知る必要があります。

 清は満州にいた(中国人=支那人とは違う)女真族の王、ヌルハチを祖にする国で、満州で力をつけ、当時、ボロボロだった中国の王朝、明を滅ぼして北京に都を定めました。
 もともと満州は荒涼とした土地で、ものすごく寒かったので、北京に移動した彼らには天国のようなものだったのです。
爛熟した明の文化を味わい、広大な宮殿、美人揃いの後宮など、それまで田舎暮しだった女真族の指導者にとっては夢の北京だったのです。

 明の時代に北京のすぐ北に万里の長城を作って「夷狄」(いてき、野蛮な外国人)から中国(支那)を守ろうとしたことでも解るように、中国人(支那人)の意識は、「中国は中原だ」(中原とは中国の中央部の平野)だということで、特別な場合を除いて積極的にはその外に膨張することはありませんでした。

 ところが、清王朝は元々「万里の長城の外の人」ですから、領土の制約はありません。
そこで、力のあった清朝の最初の時期にはどんどん外の領土を取り、大きな国になりました。(最盛期は乾隆帝の時代)
 下に宮脇先生からお借りした明と清の領土の大きさを比較しましたが、清の領土がそれまでの中国の領土より格段に大きい(約3倍)ことがわかると思います。
〔画像〕
明の版図 (http://takedanet.com/images/2014/09/27/photo.jpg
清の版図(≒中華民国) (http://takedanet.com/images/2014/09/27/photo_2.png

 つまり、明の領土が元々の漢民族が住んでいた「中原」とほぼ同じで、その外側は異民族だったのです。
明の時代ですら、その領土でも南の地方には少数民族が住んでいました。このことが後に白人が来た時の中国の政策に大きな影響を与えます。

 19世紀に入ると白人は東南アジアをほぼ制圧して、中国にやって来ます。南からはイギリスとフランス、北からはロシアでした。
もし中国という国が小さく、白人が進む途中にあったとしたら中国も奴隷的植民地になったのですが、国が大きく奥座敷にあったので、白人も全部を植民地にするという必要はなかったのです。

 そこで、清王朝と交渉して、次々と「不平等条約」を結び、「領土と利権」を取って行きます。
最初はイギリスとの南京条約ですが、その後、フランス、アメリカ、ロシアと次々に不平等条約を結び、清王朝が取った膨大な土地を少しずつ切り売りして行きます。

 当時の清王朝の天子(皇帝)は既に満州からやって来た頃の覇気はなく、北京の王朝で後宮の女性と楽しい暮しをしていましたし、第一、自分やその他の王族、官僚にとってみれば、生涯に亘って見ず知らず、行くこともない遥か遠い土地を少しぐらい白人に分けてもどうってことはなかったのです。

 私達日本人にとっては「日本国」というのがあり、その中で「遠州」とか「備中」という地域に住んでいるのであって、日本国はどこに行っても日本人が住み、言葉は日本語が通じたのです。
 ところが、中国やヨーロッパの場合、「中国」、「ヨーロッパ」という地域があるだけで、そこには「どこからかやって来た言葉も通じない王様とその一族」が居て税金を取るという事だったのです。
(中略)
 清の皇帝とその一族は女真族で、「中国が我が領土」という感覚はなく、「うるさい白人に少し土地をやっておけば良い。贅沢に暮せれば良い」ということで、愛国心もなく、そこに住んでいる住民(国民とは思っていない)の事など考える筈もなかったのです。

 だから、19世紀の初めにイギリスと小競り合いをしただけで、あとは割譲に割譲を繰返して19世紀末まで来ました。
さらにそこで、それまで属国だった朝鮮(李朝朝鮮)との関係を巡り日本と対立、日清戦争が起りました。

 それまで中国に少しずつ領土や利権を得て満足していた白人は、日本があっさりと「大国」と思っていた中国を破ったので、「これは更に行ける」と考え、先ずは日本が中国から得ようとした戦争賠償金を狙い、更に土地を狙って来ます。
「中国は死んだ虎だ」ということがはっきり分ったのです。

 中国は更に割譲を続け、ロシアには満州を(鉄道使用権、軍港など全部ではないが、主要部分)、ドイツには遼東半島を、イギリスには海岸線を、フランスには南部を、アメリカには鉄道敷設権などを与え、自分達は北京から西と西南の土地を持ってそこからのあがりで贅沢な生活をすれば良いということになったのです。

 つまり、中国だけが白人と戦わなかったのは、「白人は強いがアジア人は俺たちの部下だ」という考えで、指導層が「自分達一族だけが贅沢な生活が出来れば良い」ということだったからです
これが中国人の考える「国の防衛」ということでした。

 ちょっと付足しますと、朝鮮は日清戦争で清の属国から離れたのですが、国は荒果て王朝はないも同然でした。
そこで(朝鮮は)清が引いた後、日本が出て来るのを恐れ、どうせ誰かに国土を渡すならロシアの方が強いから、ロシアの属国になろうということになり、朝鮮半島の南端、対馬のすぐ前にロシアの海軍基地を作ることを了解したのです。(このロシアの脅威に対抗するために日本は朝鮮半島に進出する)

 白人と戦わなかったという点では中国も朝鮮もほぼ同じです。
「強いものには抵抗せず、まあまあ頑張れそうなら頑張る」と言っても良いし、「自分より強そうなら従い、弱そうなら攻撃する」ということでもあったので、結果的に、世界最強と言われたロシアの陸軍や、七つの海を支配したイギリスの海軍には従ったのです。

 それに対して日本は薩英戦争で薩摩の大砲がイギリスの東洋艦隊を破り、日露戦争でロシアに勝つという当時の世界の見方では真逆の結果を出したのですが、日本の方が無謀で中国や朝鮮の方が普通のやり方だったとも言えます。

 第二次世界大戦が終って見ると、中国は白人側についていた(日本が戦った蒋介石軍は米英の支援を受けていた)ので、そのまま独立が認められ、朝鮮は日本国だったので、日本から離れましたが、その他のアジア諸国は第二次世界大戦が終った後も、もう一度、激しい独立戦争を経験したのです。

 この間、中国は中華民国と共産党の間で激しい国共内戦があり、アジア諸国の独立に援助は一切、行ないませんでした
中華思想、アジアの盟主と言っても、中国の場合は「自国のため」だけを考えて行動するという特徴があるようです。白人と同じ発想
 そして「白人と戦ったことがない国、中国と朝鮮」が、「当時の常識では考えられないこと・・・白人と戦ってアジアの力を示す」という行動に出た日本を憎むのは当然のようにも感じられます。

 もし、中国が日本を認めたら、それは「アジアの国が白人に抵抗すべきだった」ということを是認することになり、それこそ中国の歴史を否定することになるからです。
 中国が白人側についたことを隠すためにも、「白人は侵略しても良いが、アジア人である日本が白人と戦うのは許せない」と言いたいのでしょう。(要するに、中・韓は同じアジア人である日本人がやったことが気に入らない)
それが歴史的事実とは違うことを主張し、更には日本の中に反日日本人を作り、共同で運動を進める理由と考えられます。


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マッカーサーの告白

 日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
(フランクリン・ルーズヴェルトは)イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追込んだのです。
アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメ抜きました。
そして最後通牒としてハルノートを突付けました。...

 中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。
当時、アジアの殆んどの国が白人の植民地でした。白人は良くて日本人は許さなかったのです。
ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。

 あんな物を突付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分っていました。
 我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。
アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法は、その国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。

 戦後アメリカはそれを忠実に実行して行きました。
「日本がアジアを白人の植民地から解放しようとした」という本当の理由を隠すため、大東亜戦争という名称を禁止し、代りに太平洋戦争という名称を使わせました。


 東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押付け、戦争が出来ない国にしました。
公職追放をしてまともな日本人を追払い、代りに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。


 その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。
徹底的に検閲を行ない、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。
 ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。
これらの政策が功を奏し、今に至るまで独立国として自立出来ない状態が続いているのです。

 私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。
戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。
最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。

 「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。
太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。
 日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
 歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも、働き生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。
 これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。
彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし、彼らは手を加えるべき材料を得ることが出来ませんでした。
 日本原産の動植物は、蚕を除いて殆んどないも同然でした。
綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
 もしこれらの原料の供給を絶ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
従って日本が戦争に飛び込んで行った動機は、大部分が自衛の必要に迫られてのことだったのです」

    アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
               1951年5月3日 ダグラス・マッカーサー

ソース: (http://www.sdh-fact.com/CL02_1/82_S4.pdf
引用元: (http://d.hatena.ne.jp/k1491n/20140313/1394682956


テーマ : 知ってほしいこと。
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百年前の写真

 今から百年前といえば大正時代ですが、明治、大正時代には未だ日本本来の美しさが色濃く残っていました。
アジア諸国の中で、この美しい小さな島国だけが、白人の超大国ロシアと互角に戦い、アメリカやイギリスと全面戦争して敗れたのです。
 世界中を植民地化した白人と遂に一度も戦うことなく、大戦後独立した卑劣な(卑しく劣る)中国、韓国が反日運動などする資格はありません。
当時の日本とは民族の矜持、格が違う。この点では中・韓寄りの論客副島隆彦も容認出来ません。


 百年前の写真

画像転載元: (http://www.youtube.com/watch?v=1e8gZy3YF1Y


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日本は何故戦争をしたか

 日本が侵略戦争をしたのは秀吉の朝鮮出兵の時だけである。
日露戦争は帝政ロシアの極東進出に対する日本の自衛戦争で、有色人種が初めて白人と互角以上に戦った近代史の奇跡だった。
 太平洋戦争はフランクリン・ルーズヴェルト大統領の策略によって止むを得ず始めた戦争である。(自衛戦争であったことは敵側のダグラス・マッカーサー元帥も認めている)
戦争には負けるべくして負けた(多くの売国奴が出た)が、戦後、アジアの植民地が一つ残らず独立するきっかけを作った。
 戦後の「東京裁判」は戦勝国による理不尽な断罪である。
真に裁かれるべきはアメリカだ。
現在でも日本はアメリカの実質的な支配下にある。
(日中、日韓の仲が悪いのは政治的な陰謀と見て良い。背後に世界支配層)
 
 以上が、日本人として誰もが知っておくべき歴史の真実です。
しかし、その状況はアメリカの衰退によって潮の流れが変り始めています。(西洋の時代から東洋の時代へ)
その境目に登場したのが安倍政権です。
安倍は富国強兵策を採り、日本を真の独立国にする歴史的な使命を帯びているように見えます。
 私は、平和を守るためには、暴漢に襲われても闘える武力が必要だという立場を取ります。
核兵器は決して使ってはならないものですが、持っているだけで侵略の抑止力になることも事実です。
 しかし、仮令(たとえ)、同盟国のためであっても、アメリカの侵略戦争に加担することには断固として反対します。
それは日本の尊い歴史を汚すものです。(そのために、建前としての憲法は保持すべき。アメリカの言いなりにはならない実力を持つことも必要)

 
参考記事1: 「zeraniumのブログ」
白人の植民地を侵した「日本の罪」とは何なのか? 世界史をもう一度しっかり再検証する必要がある      2014年8月26日 (火)
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-0a1e.html
英国人記者が見た『連合国戦勝史観の虚妄』 ヘンリー・S・ストークス 詳伝社
(抜粋)

東京裁判について
 「白人の植民地」を侵した日本の罪とは何だろうか?
日本がアジアの欧米植民地を侵略したのは、悪いことだったのだろうか?
もし侵略が悪いことであるのなら、世界史で分るように、アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略して来たのは、西洋諸国である。
しかし、これまで、西洋諸国がそうした酷い侵略について謝罪したことなど1度もない。
どうして日本だけが、欧米の植民地を侵略したということで謝罪しなければならないのか。

 「東京裁判」では、「世界で侵略戦争をしたのはどちらだったか」という事実を伏せて日本を裁いた。
それは侵略戦争が悪いからではなく、「有色人種が白人様の領地を侵略した」からだった。
白人が有色人種を侵略するのは『文明化』することであり、劣った有色人種が白人を侵略するのは『犯罪』であり、神の意向(ゴッズ・ウィル)に逆らう『罪』(シン)であると正当化が行なわれた。

 「東京裁判」は白人による「復讐劇」が目的であり、日本の正当性を認めるつもりは最初からなかった。
認めれば自分達の誤りを認めることになってしまう。
なぜなら広島、長崎に核爆弾を投下し、東京大空襲を始め全国の主要都市を空爆し、民間人を大量虐殺した「罪」だけではなく、もっと言えば、世界中で侵略を繰返して来た白人のその正義の「誤謬」が、決して明らかにされることがあってはならなかったからだ。
 それが連合国の立場だった。


参考記事2: 武田邦彦(中部大学) マスコミが伝えない事実と解説
普通の歴史(追補) 侵略戦争とはなにか?(3) 
憲法9条も軍部独走も関係なし
   平成26年8月24日
http://takedanet.com/2014/09/3_d7d0.html

 日露戦争、日米戦争という明治維新からこれまでに日本が戦った主要な二つの戦争は、「平和憲法があるかどうか」とか「軍部が独裁だったかどうか」など全く無関係のことだった。
 日露戦争は白人の国、ロシアがわざわざモスコーからシベリアを渡って、旅順や朝鮮まで来るから起った戦争で、日本が外国を侵略しようとして起った戦争ではない。
いわば、盗賊がドンドンと扉を叩くので、妻子を守るために戦った戦争だった。(極めて明瞭)
 日米戦争は白人の国、アメリカがわざわざワシントンから太平洋を渡って、グアム、フィリピン、そして中国まで来たから起った戦争で、日本が外国を侵略しようとして起った戦争ではない。
これも盗賊が東から来て、やむを得ず戦った戦争だった。(きわめて明瞭)
 もし戦前に「平和憲法」があって日本に軍隊がなくても、戦争は起った。
遥か彼方の国が攻めて来るのだから、そんな時に「私の国には平和憲法があります」などと寝言を言っても相手は「なんだ、それは? お前の国の中のことだろう。俺には関係ない」と言うだろう。
憲法は国内法だから国際紛争には何の意味もない。
 日露戦争の時にロシア皇帝ニコライ二世が言ったように、「日本は戦争しない。ロシアの方が強いから」と言ってどんどん来たのと同じように、「日本に平和憲法があっても関係ない。俺達は日本を取る」と言うだろうからである。
 「日本人が平和憲法を定めたから、外国は攻めて来ない」などという矛盾した論理では平和という難しいことを守ることは出来ない。
戦後70年、日本が戦争をしなかったのは、独立国なのに日本列島に世界最強のアメリカ軍が駐留し、近海に核ミサイルを積んだポラリス原潜が配備されているからだ。
 平和憲法を持っているとか、平和憲法があったから平和が守れたというのはウソである。

日本はアメリカ軍という自国の軍隊ではない、いわば世界一強い傭兵的な軍隊を持ち、更に核武装していた。
 戦前、軍部が独走したから戦争が起ったというのも間違いだ。
ロシアが旅順を軍港にし、佐世保と台湾まで進出すると言ったからロシアと戦争になったし、アメリカが太平洋を渡って日本迄来たから戦争になった。
アメリカのルーズベルト大統領は「アジア人は召使に使っても良いが、日本の黄色い猿だけは殺せ」と言っていた。
 だから、ロシアと戦争をしなければロシアの植民地になって日本の若者は両手首を切られたし、アメリカと戦争したから310万人の同胞を失っただけで済んだが、戦わなければ5000万人は殺されていただろう。
その証拠が広島・長崎・東京大空襲という事実だ。
 アメリカとの戦争の前、日本はアメリカを信用し、アメリカから石油や鉄鉱石などの原料を約7割ほど輸入していた。
それをアメリカは中国へ進出しようとし、それに中国が内通したので、日本に対して石油と屑鉄の禁輸を行なった。
 これは「宣戦布告」であるとされている。
つまり、食料や石油のような「生活必需品」、「国を守るための必要最低限のもの」を禁輸することは国際的に許されていない。それをアメリカがやった。
 ここでは、ロシアが悪い、アメリカが悪いと言いたいのではなく、そんなことを言っても意味がない。ここでは「事実をそのまま認めよう。そうしないとまた戦争になる」ということを示したいだけだ。
平和憲法があろうとなかろうと、軍部が暴走しようとしまいと、外国が遠くからやって来たら戦争になる。
 日本は自ら戦争を仕掛けたことはない。日本列島は実に住み易く2000年も住んでいるので日本人は海外に出たくない。
外国語は不得意、安全指向でシャイな性格、日本の中で生活する「内弁慶」の国だった。それは今でもそうだ。
 長い2000年の歴史で日本が外に出ようかなと思ったのは、豊臣秀吉の晩年ぐらいなもので、南に行けば豊かなフィリピンもインドネシアもあるのに行かなかった。
その点ではロシア人やアメリカ人のような白人(アーリア人種)とは全く違う考え方を持っている。
 繰返しになるが、日本が戦争をしたのは、平和憲法がなかったからでもなく、軍部が独走したからでもなく、単に「白人が遠くから、どけどけと野蛮に侵入してきた」からに他ならない。
だからこれからも平和を守るということは、平和憲法を守ることでも、軍隊を持たないことでも(現実は既に持っている)、核兵器を持つかどうかも(現実は既に持っている)でもなく、「外国が来なければ戦争にならない」ということだけである。
 自虐趣味の人はいるけれど、それに引き摺られて国民全部が錯覚してはいけない。


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「本能寺の変」の黒幕

 明智光秀による織田信長弑逆の黒幕は誰だったのか?

 諸説ありますが、イエズス会による日本侵略の尖兵=伴天連達との繋がりを深めて行った信長を、天皇中心の国体護持の為に古代より続く秘密結社八咫烏が葬り去った、という説が最も納得出来ます。
 稀代の軍師竹中半兵衛、その後継者黒田官兵衛、毛利の外交僧安国寺恵瓊といった如何にも魔導師的な人々も、裏で八咫烏に繋がっていた可能性があります。
彼等が共謀して信長に替り、木下藤吉郎(羽柴秀吉)を天下人に押し上げた、という筋書も十分成り立つように思います。
 下に記した安国寺恵瓊の有名な予言は彼(等)が常人ではなかったことを雄弁に物語っています。

 「信長之代、五年、三年は持たるべく候。
明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。
藤吉郎さりとてはの者にて候」

(天正元年12月12日付 児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状)

 因みに、信長が従三位参議(公卿)に叙任されたのは予言どおり天正2年(3月)、本能寺の変に倒れたのは予言より遅く天正10年6月2日のことでした。


参考資料1: 「zeraniumのブログ」
織田信長はイエズス会に騙されて国を売ろうとしたので殺された
          2014年3月15日(土)
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-beaf.html
古代日本人とユダヤの真実』中丸薫 著 KKベストセラーズ より
〔抜粋〕

 物部(もののべ)氏や蘇我氏が地方豪族として勢力を持っていた頃、神武天皇の東征がありました。
神武は宮崎県の高千穂あたりから、瀬戸内海を通って和歌山の海岸に上陸し、大和に入っています。
その道筋が今では「熊野古道」として残されていますが、当時はそれこそ道なき道を分け入って進んだのです。
 
 この大変だった遠征を支えたのが、「八咫烏(やたがらす)」と呼ばれた賀茂氏の賀茂建角身命(カモタケツヌミのミコト)です。
シンボルマークは3本足のカラスで、熊野神社の社紋と同じです。
伝説では、神武天皇が和歌山の海岸に着いた時にカラスが現われて、大和までの道案内をしたと言われていますが、実際には、賀茂氏の集団であったと思われます。
 この賀茂氏の始祖を祀る上賀茂神社と下鴨神社がありますが、何れも神階は正一位で、日本の神社のトップの地位にあります。
それだけに天皇家に重要な家だということですが、この賀茂氏の集団もユダヤの流れです。

 もう少し時代が下って、良く知られている人物では聖徳太子が出て来ます。
彼のお母さんは、蘇我氏の娘の中の1人です。
聖徳太子の像は秘仏として祀られていることが多いのですが、それは仏像とは違い、ゾロアスター教で用いられているものに近いのです。
 それからしても、蘇我氏の祖先はやはりキリスト教がつくられる以前のユダヤなのです。
聖徳太子は蘇我系なので、蘇我と協力して国造りを進めていましたが、推古天皇の夫と子どもの毒殺等もあり、都では皇室、豪族を巻込んだ権力闘争が絶えなかったのです。
 このように古代日本の多くの人々は皆、秦氏に代表されるユダヤ由来の人々なのですが、日本に渡来して来た時期がそれぞれに少しずつ異なり、しかも仲が良い訳でも協力する訳でもないところが、多くの争いを生み歴史を複雑にしているのです。
 
 八咫烏をシンボルとした、皇室を支える集団が今でもあると聞いています。

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註: 実際、織田信長の時と、ダグラス・マッカーサー(進駐軍最高司令官)の時と、天皇制は二度も危機を乗り越えています。
JFAのシンボルマークは、その設立に八咫烏から巨額の資金が提供されたからだそうです。
陸上自衛隊でも使われています。

画像1: JFAシンボルマーク、日本代表エンブレム及びマスコット 
JFA シンボルマーク
転載元 (http://www.jfa.or.jp/archive/jfa/outline/


画像2: 陸上自衛隊中央情報隊  転載元 (八咫烏 Wikipedia)

   中央情報隊

   
画像3: 陸上自衛隊中部方面情報隊  転載元 (八咫烏 Wikipedia)

   中部方面情報隊
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・ 織田信長はイエズス会に騙されて国を売ろうとしたために殺された

 イエズス会は随分と織田信長に接近しており、布教と引き換えに武器輸入などをしていたのです。
それがどんどんエスカレートし、その取引は、かなり国を売り飛ばすようなレベルにまで達していたのです。
そのことを明智光秀は娘を通して知り、それで彼は「本能寺の変」を起した。
あのまま織田がイエズス会を通してキリスト教徒の侵食を許していたなら、ヨーロッパの他の植民地と同じ運命を辿ることになったでしょう。

 イエズス会というのは、かなり危険な存在だったのです。
そして鎖国は国を救いました。(註: この辺は、なわさんの抄録、コブラ情報等に詳しい)


参考資料2: 「CPA東郷郁三のブログ」 
地底人の謎について(2)     2014-03-31
http://ameblo.jp/cpa-togo/entry-11809349652.html) より
〔抜粋〕 

 日本における古代ユダヤ人組織、名を「八咫烏」という。
彼等は、原始キリスト教のエルサレム教団の祭司集団として位置付けられ、最終的に聖徳太子の時代に、陰陽道の呪術者、つまり陰陽師集団として組織される。これが八咫烏である。
 陰陽道には表と裏があり、裏の陰陽道のことを迦波羅(かばら)といい、裏の陰陽師を漢波羅(かんばら)と呼ぶ。
迦波羅とはユダヤ教神秘主義カッバーラのことであり、漢波羅(かんばら)とはカバリストのことである。八咫烏は漢波羅秘密結社なのである。
 漢波羅秘密結社「八咫烏」の中核は70人。その上に大烏と呼ばれる12人の組織があり、上位3人が金鵄という称号を持つ。
金鵄は3人で1人の裏天皇を構成する。彼等は、皇室と同じように戸籍を持っていないのである。

(この東郷氏のブログ記事は、『失われた地底人の謎』 飛鳥昭雄・三神たける 著 より要約された。飛鳥氏はこの本の情報を八咫烏から一方的に提供されたそうです)


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巨人、恐竜、重力

 長さ120cmの足跡や、身長7mの巨人の骨格が発見されているそうです。
一方、最近、骨1本が人間サイズの恐竜の化石も発見されています。
アルゼンチンで発見されたその化石は、腿の骨の大きさから、体長約40m、体高約20m、体重約77トンと推定されています。
それは今迄最大と考えられて来たアルゼンチノサウルスより7t重く、アフリカ象14頭分に相当します。草食動物なので首は長く、体高はビルの7階にも達します。

 これらの事実は、かって地球の自転速度が今よりも速く(一日が短い)、遠心力によって見掛けの重力が小さかった事実を示すものと思われます。
地球の自転速度が大きく変った原因は、他の天体が近くを通過したからだと考えられます。
その時には、地球は大天変地異に見舞われ、多くの生物が絶滅したことでしょう。

   転載元(http://www.y-asakawa.com/Message2014-1/14-message73.htm
   120センチの巨大な足跡
    南アフリカ南部から発見された120センチの巨大な足跡

   転載元(http://www.y-asakawa.com/Message2014-1/14-message73.htm
   1964年、エクアドル南部で見つかった巨人の骨格。
   エクアドル南部で見つかった巨人の骨格。発掘中の2人の
   人間の大きさからすると優に7~8メートルはありそうだ


転載元(BBC News 17 May 2014 http://www.bbc.com/news/science-environment-27441156) 画面をクリックすると全体像が見えます。
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転載元(BBC News 17 May 2014 http://www.bbc.com/news/science-environment-27441156
BBC ニュース


参考記事: 「およよと驚く毎日」
恐竜絶滅の原因は? 2010ー02-05
http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-138.html
 
 恐竜が絶滅した原因は、小惑星の衝突だと言われて育って来ました。
でも、これ怪しいですね。
何年か前に書店で読んだんですが、「地球重力説」なる説があるそうです。
この説を知った途端、目から鱗でした。

 恐竜の絶滅さんのサイトでも紹介されています。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/2914/kyouryuu1.htm

 そもそも、絶滅する前に、存在していた方がおかしいのです。
もし今の重力だったら、重過ぎる体重のため、
恐竜は一歩も動けず、一切の活動が出来ない筈なのです。

 では、地球の重力が変る事は有り得るのでしょうか?
答え: あるのです。
もし、自転の速さが今よりも早かったら、遠心力により重力が小さくなるのです。
 では、地球の自転速度を何が変えたのでしょうか?
答え: 何らかの天体が地球付近を通ったのでしょう。
 では、その天体とは?
答え: 月かも知れません。


テーマ : 地球
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神国日本の面影

「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰」
    波田野毅・著 ごま書房 2005年刊
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1307-03.html
〔なわ・ふみひとの抄録〕

 この国の人々は、今迄に発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられないでしょう。
彼らは親しみ易く、一般に善良で、悪意がありません。
驚く程名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。
大部分の人は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しい事を不名誉とも思っていません。
                                       ─ フランシスコ・ザビエル ─

・ 日本人の民度の高さに驚く

 西欧人以外の多くの異人に接して来たザビエルは、日本人が余りにも民度が高く優秀なので驚き、前掲のような讃嘆を繰り返し繰り返し述べています。
おそらくザビエルは、ヨーロッパよりも日本の文化の水準の方が高いと感じたのでしょう。
 例えば、「好奇心が強く、しつこく質問し、知識欲が旺盛で、質問は限がありません」、「とても気立てが良くて、驚くほど理性に従います」、「日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、その他様々な優れた素質がある」と言い、その優れた資質に驚きを隠していません。
 日本人は、地球が丸い事や太陽の軌道を知りませんでした。
しかし、知識欲旺盛なため、色々知りたいと思い、そのような事や流星、稲妻、雨、雪の事など次々に質問しました。
そして答えを聞き、説明を受けると、大変満足して喜んだと云います。
 さらにザビエルを驚嘆させたのは「大部分の人は読み書きが出来る」という事です。
識字率は少なくとも自国のスペインの民よりは高そうだし、今まで接して来たインド、中国の人よりも一般日本国民の方が読み書きが出来るという事に驚いたことでしょう。

・ 清貧を良しとし名誉を重んずる

 また、清貧を良しとし、名誉を重んじるという事が、日本人の特徴として特筆されています。
「日本人達は、キリスト教の諸地方の人々が決して持ってはいないと思われる特質を持っています。
それは武士達が、いかに貧しくとも、そして武士以外の人々がどれほど裕福であっても、大変貧しい武士は金持ちと同じように尊敬されています」
「名誉は富よりもずっと大切なものとされています」。
 武士は名誉が大切なため、お金儲けのような不名誉な行為に走る事がなく、よって下から絞り取って、自分を富ませるという事もありませんでした。
ですから貧乏にはなりますが、不正は少なく、民は潤い、良い社会になって行きます。

・ 西欧の魔手から逃れられた理由

 ザビエルは純粋に布教の目的で日本に来たものと思われます。
しかし、植民地化の先兵としての役割を果していた宣教師も多かったのです。
宣教の名の下に他国に入り込み、それを足掛かりにして侵略して行くという手法です。
 明治維新後日本に来たチェンバレンは、こう言います。
「我がキリスト教と人道主義を振りかざす人々が、実は単なる偽善者に過ぎない事を ─ どの東洋諸国民も知っているので ─ 彼等(日本人)もまた充分に良く知っている」。
 大航海時代はその実、ヨーロッパ諸国の大侵略時代でした。
東南アジアは多く植民地化され、日本にもその魔の手は来ました。
しかし、西欧は、他の民族とは違うものを日本に見て、征服する事に困難を感じました。
 その理由は……、

 ① 武士の存在
 名誉心が強く、人に誇りを傷付けられるのなら、死を賭してでもそれを防ぐという武士は、征服する側としてはとても手強い存在だったでしょう。
イタリアのイエズス会巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは「日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら(中略)国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服可能な国土ではない」と言っています。

進取の気風がある
 種子島に鉄砲が来て、2挺買い取ったら直ぐそれを自らの手で作り上げ、10年の中に日本中に普及させる日本人の凄さ。
これは新しい物を取入れる気概と明敏さがあり、また、伝達網がしっかりしているという事です。
他の国々では進取、自主が出来ない国が一般的で、植民地化されてしまいました。

民度の高さ
 字の読み書きが出来る人が多く、理知的で理解が早い。
高い道徳性で秩序が保たれている。付け入る隙もない。

上の命令はよく聞き、統率が取れている
 いざ戦いとなると手強い存在。

地理的条件
 日本はヨーロッパから遠く、また東南アジアの植民地からも距離があり、海に囲まれ征服の軍を出すにしても陸続きに兵站の供給が出来ない。
更に前記理由の手強さを見るに、乗り込んで行っても、苦戦し、兵站の供給にも困り、よって勝つのは困難と考えたのでしょう。

  これらの理由により、諸外国は単純な征服は手控えざるを得ませんでした。
そこで、作戦を変更し、先ずは宣教または貿易で門戸を開かせ、足掛かりを作り、然る後、戦争に持って行く、そんな作戦だったでしょうが、江戸期の指導者はそれを見抜き、いわゆる「鎖国」という政策を実施し、相手が来られないようにした訳です。
 プロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカテリーナ2世に大きな影響を与えたフランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694~1778)は、『習俗試論』という大著を著しています。
その本文の最終章は、何故か日本についての記述で、「17世紀の日本と同国におけるキリスト教の消滅について」という題で、以下のように述べています。
 「日本人は寛大で、気安く、誇りの高い、そして、その決断に関しては極端な一民族である。彼等は最初異国人達を好意を以って受け入れた。ところが、自分達が侮辱されたと信ずるや、彼等ときっぱり縁を切った」と述べ、キリスト教の日本壟断の意図に対する日本の英断を称えています。
 インドの首相ネルーは、この時期の日本についてこう述べています。
「むしろ彼等が、ヨーロッパと殆んど交渉がなかったにも拘らず、宗教という羊の皮を被った帝国主義の狼を看破る洞察力を持っていた事こそ、驚くべきことだ」
 このようにして、西欧の恐るべき植民地化の罠から脱した日本は、世界史的にも特筆すべき長期の平和な江戸時代を築きました。

なわのひとくちコメント

 ― 次々と植民地化して来たアジアの国々と違って、日本人は大変手強い国民である事が解ったため、西欧の“魔の手”も江戸時代の日本を侵略する事は出来なかったのです。
しかし、決して日本侵略を諦めた訳ではなく、やがて戦艦や大砲など侵略用の武器が発達した段階で、決定打としてはペリーによる“黒船の来襲”という形で、日本侵略の橋頭堡が築かれたのでした。
250年に亘って続いた江戸時代の泰平の夢は遂に破られたのです。
 ところが、その後日本は明治新政府の下で瞬く間に欧米諸国と肩を並べる程に国力を高めます。
改めてこの国の手強さに脅威を感じた西欧の“魔の手”は、昭和に入って日本を太平洋戦争へと誘い込み、今度はこの国と国民の優れた部分を完膚無き迄に破壊し、支配し易い国民に作り替えてしまいました。
 その結果として、今日では自己中心でお金に卑しい人々が増える事になったのです。
なまじ日本人が優れていたために、“魔の手”によって徹底的な破壊の対象にされたということです。
 外国人の目に映ったかつての日本人が如何に優れた民族であったかという事について学ぶことがなければ、国民は益々自信を失い、自虐的になって、やがては完全に滅んでしまうことになるでしょう。
 この本を読みますと、単にこの国の現状を嘆いているのでなく、日本人が本来は大変優れた資質を持った国民である事を誇りに思い、それを若い世代に伝えて行く必要性を痛感させられます。(なわ・ふみひと)


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韓国の米軍慰安婦集団訴訟

 「およよと驚く毎日」さんからの部分転載です。


「米軍慰安婦だった」と主張する韓国人女性が集団訴訟
   TBS News      (25日18:20)
http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2665.html
 
 朝鮮戦争後の韓国で政府の管理の下、駐留するアメリカ兵士の相手をさせられ、「米軍の慰安婦だった」と主張する女性達がソウルで記者会見を行い、韓国政府に謝罪と賠償を求め集団訴訟を起しました。

 訴えを起したのは、いわゆる「基地の村」でアメリカ人兵士の相手をさせられた「米軍慰安婦だった」と主張する韓国人の女性122人です。

 「基地の村」とは、朝鮮戦争後、韓国に駐留したアメリカ軍の付近に出来た集落とされ、女性達は声明書で「国家が旧日本軍の慰安婦制度を真似て『米軍慰安婦制度』を作り、徹底的に管理して来た」と指摘しました。

 その上で、当時、政府が米軍周辺などの特定地域を売春防止の除外対象とした等として、謝罪と賠償を求める訴えをソウル中央地裁に起しました。

 韓国では、過去にもこの問題が取り上げられた事がありますが、支援団体によると、こうした女性達が訴訟に踏切るのは初めてです。

  洋公主
   「洋公主」の写真 (OFF-LIMIT や KEEP OUT 等の英語が見える)


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河野談話の形骸化

 この勝負、日本の作戦勝ちですね。
もう一つ、「南京大虐殺」という歴史の捏造も「調査」して欲しいものです。


goo ニュース
「河野談話を形骸化させる」 韓国、検証報告書を非難
  2014年6月26日(木)19:00       朝日新聞 DIGITAL
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASG6V4SQMG6VUHBI01S.html

 韓国外交省は、河野談話の検証結果に対する見解を公表した。
検証報告書は日本側が日韓の協議内容を勝手に編集したものだとして「談話の信頼性を傷つけ、形骸化させようとしている」と非難した。

 見解は25日付で、25日夜に外交省のホームページに掲載された。

 検証報告書では文言の調整は発表前日まで日韓間で行われ、当時の金泳三(キムヨンサム)大統領も「強制性」に関する最終案を評価していたとした。
こうした協議内容を公開したことについて韓国外交省の見解は「外交慣例に反し、非常識な行為だ」と批判した。


goo ニュース
河野談話 不用意な発言 後世に禍根
  2014年6月21日(土)07:59      産経新聞
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20140621072.html

 河野談話を検証する有識者チームの報告書により、20年以上も国民の目から隠されて来た談話の実態が白日の下に曝された意義は大きい。
産経新聞が繰り返し報じてきたとおり、談話は歴史の厳密な事実関係よりも、強制性の認定を求める韓国側への政治的配慮に基づき、日韓両国がすり合せて合作していた。
また当時の河野洋平官房長官が政府の共通認識を踏外し独断的に「強制連行」を認めてしまった事も改めて確認された。

◆「連行」確認出来ぬ

 報告書は、政府が実施した関係省庁や米国立公文書館の文書調査、旧軍関係者や元慰安所経営者からの聞き取り、韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」の慰安婦証言集の分析などを通じ、こう結論付けている。

 「(政府の)一連の調査を通じて得られた認識は、いわゆる『強制連行』は確認出来ないというもの」

 その上で報告書は平成5年8月4日の談話発表時の河野氏による記者会見について1つの章を設けこう特記している。

 「(河野氏は)強制連行の事実があったという認識なのかと問われ、『そういう事実があったと。結構です』と述べている」

 これについて、現在の政府高官は「それまで政府は強制連行は証拠がないという一線を守っていた。
それなのに、河野氏の発言で強制連行説が独り歩きする事になった。
完全な失敗だ」と指摘する。
実際、河野談話には「強制連行」という文言は出て来ない。

 地位ある政治家の単なる失言か確信犯的な放言か。
何れにせよ、不用意な発言で後世に災いの種を蒔いた瞬間だったと言えよう。

 また報告書は、今年2月に国会で河野談話について証言して談話検証のきっかけとなった当時官房副長官の石原信雄氏が、慰安婦全体への強制性認定を求める韓国側に対し、こう拒否した事も記している。

 「慰安婦全体について『強制性』があったとは絶対に言えない」

 ところが、報告書によると河野談話は日韓間のすり合せの結果、最終的に「募集、移送、管理等も甘言、強圧による等、総じて本人達の意思に反して行われた」という表記に落着いた。

 この「全体」とも「概ね」ともどちらとも解釈出来る「総じて」という玉虫色の言葉は、当然の事ながら韓国側では「全体」と受止められる事になった。
この間の事情も、趙世暎(チョ・セヨン)・元韓国外務省東北アジア局長の産経新聞に対する次の証言と符合する。

 「韓国側から『こうした表現ならば大丈夫ではないか』と意思表示した」(17日付紙面で既報)

 韓国側は、日本側が河野談話の一部修正に応じなければ「韓国政府としてはポジティブに評価出来ない」とも通告しており、韓国ペースで最終調整が行われていた事も分る。

 また、こうしたすり合せについて、日本側から韓国側に「マスコミに一切出さないようにすべきであろう」と申し入れ、韓国が了解したというエピソードも重要だ。
河野氏を始め政府はその後、すり合せの事実を繰返し否定し、国民を欺いていたからだ。

◆外務省「穏便に」

 ただ、報告書は個々の事例や事実関係への評価は避けており、物足りなさも否めない。
チームのメンバーの一人は「報告書の作成過程で、情報を提供する側の外務省は一貫して『穏便に、穏健に』という意向だった」と振返る。

 政府の公式見解ではなく、民間の有識者チームの検証結果報告という形を取ってもなお、なるべく波風を立てたくないとの配慮が働いている。日本外交の宿痾(しゅくあ)だろう。(阿比留瑠比)


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太平洋戦争の真の戦犯達  

「共産中国はアメリカがつくった」 ジョゼフ・マッカーシー著/本原俊裕訳/副島隆彦監修・解説 (成甲書房, 2005年)
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/hitokuchi002.html

副島隆彦による解説
 ‥‥日本は、開戦時からずっとアメリカに操られていた事が分る。
ロックフェラー家が密かに時間をかけて手なずけていた日本側の「民政党(三菱財閥系)」の政治家達(政友会=三井ロスチャイルド系の政治家達、と争った)や海軍の最高位の軍人高官達、即ち、山本五十六、米内光政(敗戦迄ずっと海軍大臣だった)、井上成美等を使って、日本を見事に罠に嵌め、開戦にまで引摺り込んで行ったのである。
だから日本国民は戦乱の中に叩き込まれ、3年半で400万人の犠牲者を出した。

 これは2005年末の今の日本の「金融占領」、「マネー敗戦」の無惨な姿と全く同じである。
これには日本国内から手引してニューヨークの金融ユダヤ人達を日本国内に呼び寄せた者達がいる。
1998年10月の「外為法の大改正」(いわゆる「金融ビッグバン」)で、「金融自由化」、「規制緩和」のスローガンの下に日本はこじ開けられた。
アメリカの金融ユダヤ人達、即ちロックフェラー財閥の下僕、尖兵となった売国奴達は、今も大きな顔をして政権を牛耳り、日本国民の金融資産を惜気も無くアメリカ帝国に差し出している。
 「そうしなければ、アメリカがとても許してくれない」というのが、日本の政・官・財の指導者達の、まだ僅かに愛国心が残っている者達の一致した、本音での弱々しい言訳である。
 日本は、ごっそりとあと300兆円ぐらいをアメリカに差出した後、その後に、再び仕組まれる新たな日中戦争(シナ事変)への道を歩まされるのは必定である。
これは60年前のいつか来た道であり、深く仕組まれた“再びの戦争への道”である。

 あの日本の連合艦隊による真珠湾攻撃も、大きく仕組まれたものであった。
この事は、近年、遂に世に出た大著、ロバート・スティネットの『真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々』(文藝春秋/2001年)に書かれており、これによって、歴史の真実が大きく暴かれた。
真珠湾攻撃のあった年から数えて60年目にして、大きな真実がヌーッと白日の下に露出したのである。
(中略)
 そして私達は、ロバート・スティネットに先立つこと50年前の時点で、ジョゼフ・マッカーシー上院議員が、真珠湾攻撃が初めから仕組まれていたものであったと報告している事を知って、戦慄を覚える。
 私達日本の運命も、こうしてアメリカの“雲の上”の人間達に握られているのである。
そして、今の今も、彼等の思うが侭に操られている。


● この著書(ジョゼフ・マッカーシーの)によって、私がこの間「DIARY」(なわのつぶや記)で述べてきた事の裏付けとなる事実が明らかになりました。
やはり山本五十六は日本を戦争に巻込んだ確信犯だったのです。
 太平洋戦争は、アメリカの支配層が日本を完全な支配下に置く為に、日本の政治家や海軍の高官の中に配置したスパイを使って戦争に踏切らせ、敗北へと導いたのでした。
かくして、何も知らずに戦地に赴いた兵士達と、原爆を初めとする本土爆撃によって被災した日本人の犠牲者は400万人に達したのです。

  今、あの60年前と同じやり方で、我国はアメリカに仕掛けられたマネー戦争に破れ、国民の巨額の金融資産がアメリカ(を裏から支配する連中)に貢がれつつあるのです。
しかも副島氏は、このあと日本はまた中国との戦争へと誘導されるだろうと見ています
「陰謀などある筈がない」と思っている方に是非ご一読頂きたい本です。(なわ・ふみひと)


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米側資料による「真珠湾」の真実

「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」
ロバート・B・スティネット 著/妹尾作太男 訳 文藝春秋 2001年刊
(Amazon.co.jp の広告ページより)

 1941年12月の真珠湾攻撃について、絶えずある議論が繰返されて来た。
アメリカ合衆国大統領ルーズベルトは日本軍の奇襲を知りながら、世論を大戦参加へ導く為、敢えて自国の艦隊を犠牲にしたのではないか、というものである。
数多の書物がこの「陰謀説」を取り上げて来たが、自ら米退役軍人である著者は20万通もの文書と関係者へのインタビューに基づき、論争に終止符を打つ程の成果を挙げている。

 アメリカ側は単に襲撃を察知していただけではなく、むしろ意図的に日本をそこへ導いたというのが、本書の主張である。
俄には信じ難いような話だが、「情報の自由法」(FOIA)により近年漸く日の目を見た未公開資料の山が、圧倒的な説得力で迫って来る。
 中でも中心となるのは、真珠湾の前年、海軍情報部極東課長マッカラムが起草した、日本への戦争挑発行動覚書だろう。
以後の対日政策は、当にこの覚え書どおりに進行している。

 また、開戦直前の日本艦隊には「無線封止」が行われたと言うのが定説だが、実際は極めて無造作に通信が交されており、その大半が傍受解読されて作戦は筒抜けだった。
これまた驚くべき話だが、130通にも及ぶ傍受記録を突付けられては納得するしかない。

 著者は執拗な迄の粘り強さで資料を博捜し、これ迄の常識や偽られた史実を次々と覆して行く。
情報重視の姿勢は、収集した資料を公開する程の徹底ぶりで、有無を言わさぬ信憑性がある。

 無論、未だに閲覧を許されない極秘文書は数知れず、各方面からの反論も多々想定されるが、本書によって真珠湾研究が次の段階へ入った事は間違いない。
今後、この著作を経ずして真珠湾を語る事は出来ないだろう。
それだけの重みをもつ本である。(大滝浩太郎)

・ 内容(「MARC」データベースより)
 日本軍による卑劣な騙し討ちと罵られた真珠湾攻撃。
だが、実は騙したのはアメリカ側だった。
17年の歳月を掛け、膨大な新資料を駆使して迫る太平洋戦争の真実。

・ 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
スティネット,ロバート・B.
 1924年、カリフォルニア州オークランド生れ。
真珠湾攻撃の時は高校在学中で、翌1942年卒業と同時に海軍に志願入隊、1946年まで当時海軍大尉だったジョージ・ブッシュ元大統領の下で太平、大西両洋の戦場に従軍、その軍功に対し青銅従軍星章10個及び大統領感状を授与された。
 戦後はオークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者を勤めた後、1986年退社。


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封印された神の国日本

 前回の記事でオレンジャーが言っている“日本の戦後教育で封印された真実”の一つがこれだと思います。
これを読むと、テレビドラマの「水戸黄門」シリーズも浅薄な勧善懲悪の型を借りた嘘の刷り込みだと判ります。


「危機の日本人」 山本七平・著 角川書店 2006年刊
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1304-28.html
〔なわ・ふみひとの「抄録〕から抜粋

宣教師たちは日本をどう見ていたか

 「日本人はまた理解力に富むのみならず、想像力にも富み、自ら、世界の何処の民族にも劣れるものに非ずと確信すれば、その見識は自然に高く、外人と邂逅(かいこう)しても、ただこれに賤視(せんし)の一瞥を与うるのみなり。彼等は良く善悪を識別す」
 (1577年宣教師コスムス・ワルレンシスの書簡)

 彼の来日はザヴィエルの来日から27年目だから、ある程度の予備知識は持って来たであろう。
ではザヴィエルやそれに続くフロイスの印象はどうだったのであろうか。

 「第一に、余の考えにては日本人ほど善良なる性質を有する人種は、この世界に極めて稀有なり
彼等は至って親切にして、虚言を吐き詐欺を働くが如き事は、かつて聞きも及ばず、且つ甚だしく名誉を重んじ、その弊は反って彼等をして殆ど名誉の奴隷たらしむるが如き観あるに至れり」

 「日本人は学を好み、他国人よりも良く道理に通ずるも、未だ地球の球体なる事、及びその運行の事を知る者無かりし故、余等その理由その他天文に関する事を説明せしに、彼等は喜びてこれを聞き、且つ上流の人は、余らを敬慕して益々その説の蘊奥(うんのう)を叩〔啓〕けり。
彼等は才知と勇気とに富みて心豊かに学を好めば、真理を信ぜしむるには十分の見込あり」
 (以上ザヴィエルの書簡)

生来、道理に明らか、盗みを憎む……

 フロイスの1565年の書簡には次のように記されている。

「……日本の貴人は皆礼儀正しく教育良く、喜んで外国人に会い外国の事を知らんと望み、極めて些細なる点まで聞かんとす。
彼等は生来、道理に明らかなり。
 盗みは彼等の最も憎むところにして、ある地方に於ては盗みを為したる者は何ら手続を踏む事なく直ちにこれを殺すを得、鎖なく牢獄なく司法官なく各人は自家に於て判事たり。
故にこの国の良く治まらざるを得ず、罪は見逃されず、また譴責によって免除されず、直ちに犯人を殺すが故に、恐怖によりよく統治せらる」

 以上の3つの書簡はすべて関ケ原の前、いわば16世紀に書かれたものである。
だがそれにつづく多くの書簡等も、日本人の礼儀正しさ、犯罪への強い嫌悪感、知的好奇心の旺盛さを記している。
 以下引き続いて、17世紀、18世紀、19世紀の、云わば「外人」の日本人観を紹介したいと思う。
それが比較的客観的なのは、この時代と徳川時代の大部分に於いて、多くの外国人は日本人のこういった特性が自国にとって危険なものとは見ていない事による。
 日本人は、彼等にとって、海の彼方の島国の珍しい民族であり、これを、一種、好奇の目で眺めているだけである。
だがこれが幕末、即ち19世紀になると、意外な程早くから日本警戒論が出て来る
しかしそれは一先ず措き、ここではその前の幕藩体制時代の日本人評から始めてみよう。
 家康の顧問となった三浦按針(あんじん)ことウィリアム・アダムズは、イギリス本国への書簡の中で次のように述べている。

日本人民は性質温良にして礼儀を重んずること甚だしく、戦いに臨みては勇剛なり。
国法を犯したる者は厳刑に処して仮借するところなく、法を用うる事公平
にして今や国内太平なり。
蓋(けだ)し内政宜しきを得る事日本国の如きはまた他に在らざるべし

士商工農と見なしたオランダ人

 これが徳川中期となるとオランダ人の日本人観が加わり、またオランダ商館に雇われたドイツ人やスウェーデン人 ─ たとえばケムプエルやツンベルグ ─ などの記述が加わる。
さらにヨーロッパでは、日本関係の資料を集めた物や、16世紀の宣教師が送ったものを編纂した『日本西教史』などが出版される。
 次は17世紀中頃のオランダ人モンタヌスが蒐(しゅう)集し、『オランダ使節日本紀行』の中に収録したものである。

 「官吏(武士?)、商工民、農民等には多くの徳あり。
第一に彼等は概して善性なり、親切にして愛すべし、その理解は俊足、記憶もよくまた想像力にも富めり。
その正確の判断及び学問等に於ては、独り東方の諸国民に超越するのみならず、我等西洋人にすらも勝る。
 されば彼等の田舎人、また教育を受けざる児童の如きにても、その懇切典雅なるに於て、あたかも一紳士なり。
彼等は我等ヨーロッパ人よりも早くラテン語、諸種の工芸科学を知得す。
 貧なる事は日本人にありては恥とせられず、且つこれが為に人に賎(いやし)めらるる事なし。
彼等は常にその居宅を清潔にし、衣を更(か)えて人を訪れる。
全て粗野なる語を発し大声に語るが如き事を忌み、貧賎、偽誓、または遊蕩もまた甚だしく厭わる。
 名誉を得るの欲望頗る盛んなるも、また敢えて己れの上長を敬するを忘れず、名誉のためには何事も犠牲にす。
偽りて人を訴うるは彼等に於ては罪人なり。
故に下賤の人にても、人に邂逅(かいこう)する時はこれに相応の尊敬を表し、たとえその人の不在の時にでも、決してこれを悪し様に言う事なし。
 貴人の会話は主として他の功名美徳の讃美雅称なり。
仮令下賤の日雇人にてもその日常、敦厚(=篤実で人情に厚いこと)ならざれば、雇主は直ちにこれを解雇す。
要するにかかる人物を用いて争闘の起る事のなからんことを心とするのみ。
 されば人々、仮令古き怨みを心に懐くとも決してこれを言辞に表わさず、僅かに悲しき不満の面持を為すに止まり、事の善悪曲直に拘らず、これと争い、または人の仲裁を求むるが如き事のあることなし。
 すべて多言は日本人にありては品位ある人々を大成さす所以に非ずとせらるれば、その街道に出でても、通行する平民に些かの諍いあるをも見る事なし。
 夫と妻と、親と子と主人と僕との間には勿論衝突なし。
何事も沈黙静謐(せいひつ)に葬り去られ、何事かの小破綻ありとしても、これが友人によりて繕われ、和解せらる。
 たとえその非行を罰する事ありとするも(斯くの如き事は極めて稀なれども)これに対して用いる語は全て温柔なり。
この故に日本人には、我等ヨーロッパに於けるが如き法廷なく、法律なし
 彼等は私怨をば公敵に対する戦争に於て償却す。
如何なる時にも己れの不幸困難を愁訴せず、また己れの損失を憂えず、心を蝕む激しき悲哀が胸裡に存するとも、よく楽しげなる顔貌を以てこれを覆うの驚くべき能力を有す……」

 以上のような記述のほかに面白い点は、オランダ人はこの日本紀行の中で日本の階層を士農工商ではなく、士商工農と見ている点である。
徳川時代の日本の現実を見た者が、そのように見ても不思議ではない。

飢渇寒暑に屈せず、勤務に倦怠せず

 さらに1689年刊行のフランス人 J・クラッセの「日本西教史」には次のように記されている。

 「日本人はことに堪え忍ぶ驚くべき美質あり。
飢渇寒暑に屈せず勤務に倦怠せず、商人等も粗暴の挙動なく、実に親切丁寧に、職工農民等の卑賤に至る迄もヨーロッパとは反対なれば、知らざる者は彼等が皆宮中にて教育を受けたりと思わん程なり……」

 「日本人一般の気質として名誉を重んじ、自分が賤視せらるるを嫌忌すること外国人の比すべき所にあらず、事々物々みな名誉面目の念によりて拘束せられざるなし。
従って彼等は一途に自分の職務に精励し、如何なる小事と雖も、不当の行為に出ずる事なく、またこれを口外せず。
 日本人はその身分に準じ義務責任を怠らざるにより、不正の言語を発し人を損う事少なく、諸人互いに尊敬し合う。
なかんずく貴族等の礼讃に至りては位階・順序・立居振舞・進退の容儀を以てこれを表すが故に、悉くこれを解明すること難し。
 下賤貧困の者共にても相互の間に敬礼あり……日本人は貪欲を嫌忌し、もし一人貪欲なる者ある時は目して卑劣にして廉恥なき者とす。
これまた、その名誉を希望するに因(よ)るなり……」


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歴史に封印されている真実

宇宙の本質を語る宇宙人「オレンジャー」からのメッセージ
歴史に封印されている真実     2014-05-19
http://ameblo.jp/oranger13/entry-11854926119.html

 俺はオレンジャー!

  君達が学校の教科書で学んだ事は、その多くが真実ではなく、多くの意図によって歪められて伝えている事をもっと知るべきだ。
事実を歪めて伝えられているのであれば、現世の中では様々な情報が流れているので、確認も出来るのだが、一番性質(たち)が悪いのはその情報の存在そのものを抹消してしまう事。

 抹消されてしまうと、そもそも検証の機会が与えられなくなり、その事実へのアクセス手段が無くなってしまうからだ。

 日本という国は戦後教育に於いて、占領国アメリカの強い意図によって支配されていた。
その影響は今でも強く残っていて、その教育を受けた君達は、ある特定部分の情報がぽっかりと抜けてしまっている。
抜けているものを探し出すことは不可能に近い。
でもそういう状態にある事を是非知って置いて欲しい。

 今日はこんなところだ。 じゃ!


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朝鮮人慰安婦に関する米軍の資料

 「唖蝉坊の日記」(2013-11-06)から辿った元記事を収載して置きます。
私のブログ記事「従軍慰安婦問題への一石 」(10/29)(http://hituki8910.blog.fc2.com/blog-entry-266.html
と併せてお読み下さると、韓国がしていることの馬鹿さ加減が解ります。


〔msn 産経ニュース〕
米側資料の慰安婦は「大金を稼ぎ欲しい物が買えた」/韓国が主張する性奴隷とは異なる風景
2013.11.5 09:20 [歴史認識]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131105/plc13110509210006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131105/plc13110509210006-n2.htm

 根拠なく慰安婦募集の強制性を認めた河野談話が出されて以降、世界で慰安婦イコール性奴隷と流布されているが、現実はどうだったのか。
過去の米国の資料からは、それとは全く別の慰安婦像が浮び上がる。

 米国戦争情報局資料「心理戦チーム報告書」(1944年10月1日)は、米軍がビルマ(現ミャンマー)・ミートキーナ(現ミチナ)で捕えた朝鮮人慰安婦20人等を尋問して聞き取った内容をまとめている。
それによると慰安所における慰安婦の生活の実態は、次のように記されている。

 「食事や生活用品はそれ程切り詰められていた訳ではなく、彼女らはお金を沢山持っていたので、欲しいものを買うことが出来た。兵士からの贈り物に加えて、衣服、靴、たばこ、化粧品を買うことが出来た」
「ビルマにいる間、彼女らは将兵と共にスポーツを楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機を持っており、町に買い物に出ることを許されていた」


 報告書はまた、「慰安婦は客を断る特権を与えられていた」「(日本人兵士が)結婚を申し込むケースが多くあり、現実に結婚に至ったケースもあった」と書いている。
雇用契約に関しては、慰安所経営者と慰安婦の配分率は50%ずつだが、平均月収は1500円だった(当時の下士官の月収は15円前後)
(666註: 大将の年俸が6,600円の時代に慰安婦の年収は18,000円だった! お金の面で恵まれていただけではなく、行動の自由も人権もある程度認められていたのだ。彼女達を縛っていたのは日本軍ではなく、慰安所の経営者との間に結ばれた雇用契約だった)

 国連人権委員会に96年、慰安婦を性奴隷と位置づける報告書を提出したクマラスワミ特別報告官と会い、慰安婦問題について説明したことがある現代史家の秦郁彦(はた いくひこ)氏は次のように語る。

 「クマラスワミ氏は、河野談話は『強制連行』とは書いていないが、それを否定していないと解したのだろう。
河野談話は日本政府の談話であり、国連などの場で他者を説得するには一番便利だ。
また、外国人の感覚では『悪いことをしたから謝るのだろう。やはり強制連行をしたのだ』と受け止めるのも無理はない」


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大本から日月へ

 出口王仁三郎の霊界からの警告
          武田崇元 光文社 1989年刊

・ 出口王仁三郎の遺書

いま、大本にあらわれし、変性女子(へんじょうにょし、瑞霊、みずのみたま、王仁三郎のこと)はニセモノじゃ。
 誠の女子があらはれて、やがて尻尾が見えるだろ。
女子の身魂を立て直し、根本改造しなくては、誠の道は何時までもひらくによしなし。
 さればとて此れにまさりし候補者を、物色しても見当たらぬ。
時節を待ちていたならば、いずれあらわれ来るだろう。
美濃か尾張の国の中、まことの女子が知れたなら、もう大本も駄目だろう。
 前途を見越して尻からげ、一足お先に参りましょ。
皆さんあとからゆっくりと、目がさめたなら出てきなよ。
盲千人のその中の、一人の目明きが気をつける。
ああかむながら、かむながら、かなはんからたまらない、
一人お先へ左様なら」(王仁三郎)


 これは、彼が政治家・床次竹二郎(とこなみたけじろう)の弟、真広(まさひろ)に渡した遺書である。
 王仁三郎は自分が何者かをよく知っていた。
自分の死後、〈大本〉が終ることも知っていた。
彼の役目は「五十年の地の準備神業」即ち、次に来る御経綸の最終段階へ向けて地均しをすることだったのである。

「三代教祖の時に仕組みが変る」(王仁三郎)

「大本事件は松竹梅事件だ、第三次は竹だ、竹は中が空である。
教団の内容が空になり内部分裂する仕組みである」 (王仁三郎)


 実際に昭和55年、三代出口直日教祖の時に、竹田に出口京太郎氏を代表とする別会(宮垣会)が誕生した。
これが引き金となり、大本教団から「宮垣会」と「いずとみずの会」が分れて行き、大本は三つに分裂する。
 今日、大本に昔日の面影はない。

御経綸三千年に満ちぬるは、明治の24年なりけり(翌25年、ナオに艮の金神が憑かり初発の神示)
昭和歴十八年の元旦は五十年準備の満てる日にぞある
五十年の地の準備神業を終え十八年は第一年となれり
三千年と五十年にて切り替えの準備は全くできあがりけり

昭和十八年未の年より三千年のいよいよ仕組みの幕はあがれり」
(王仁三郎)


 役目を終えた王仁三郎と入れ替わるようにして昭和19年6月10日から、岡本天明へ降されたのが、艮の金神国常立大神の「日月神示である。
 そして1986年、ハレー彗星と共に美濃(今の岐阜県の一部)に降臨した国常さんの許に、密かに呼び寄せられた身魂の中に昭和十八年未年五月五日生れの私もいた。
 
・ 大本から日月へ

 大本の雛型経綸は、王仁三郎の逝去と日月神示の出現によって終った。
何故なら、以下の神示にあるように、建替えの中心が戦争による建壊しから身魂の建替えへと移ったからである。

始めは戦(たたかい)で、争(いくさ)で世の建替する積りであったが、あまりに曇りひどいから、 イクサばかりでは、すみずみまでは掃除出来んから世界の家々の隅まで掃除するのぢゃから、その掃除中々ぢゃから、戦許(イクサばか)りでないぞ、
(ひふみ神示 第廿巻 ウメの巻 第18帖)

世の建替と申すのは、身魂の建替へざから取違ひせん様致されよ、
ミタマとは身と霊であるぞ、
今の学ある人民、ミばかりで建替へするつもりでゐるから、タマが判らんから、いくらあせっても汗流しても建替へ出来んのざぞ。
(ひふみ神示 第廿二巻 アホバの巻 第15帖)


 身魂の建替えは「改心と掃除洗濯と身魂磨き」を骨子とする。
それは2012年12月、一厘の仕組」の発動により、「暗黒の三日間」を経ることなく、段階的に進行するように仕組が変更されたのである。
 
 「一厘の仕組」が発動される以前にどのような御経綸になっていたかは、出口王仁三郎 三千世界大改造の真相 中矢伸一・著 KKベストセラーズ 1993年8月刊 を読めば解る。なわ・ふみひと氏の抄録がある。(http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-onisaburo.html
 そこには、王仁三郎の「続・瑞能(みずの)神歌」と、「日月神示」に共通したシナリオがあった。 

 シベリア狐は死にたれど 醜(しこ)の曲霊(まがたま)は種々(くさぐさ)に妖雲呼んで東天は 北から攻め入る非道さよ
オホーツク海や千島船 カラフト島をゆさぶりて 雪割草の間より 暗雲低く仇鳥(あだどり)の 舞い下り上る怖ろしさ
北海道から三陸へ なだれの如く押しよする ここを先どと連合の 戦(たたかい)の場や神の国
華のお江戸は原爆や 水爆の音草もなき 一茫千里大利根の 月の光もあわれぞかし 残るは三千五百万・・・ 
(続・瑞能神歌)

 嵐の中の捨て小舟ぞ、どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも分かるまい、メリカ、キリスは花道で、味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、梶も櫂さへ折れた舟、何うすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、それでは神も手が出せぬ、腐りたものは腐らして、肥料になりと思へども、肥料にさへもならぬもの、沢山出来ておらうがな、
 北から攻めて来るときが、この世の終わり始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、この世の終わりは神国の、始めと思え臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意をいそぐぞよ。
(ひふみ神示 第三巻 富士の巻 第16帖)

大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組ぢゃ、
(ひふみ神示 五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第7帖)


 しかし、このシナリオは土壇場で破棄、変更されたというのが私の判断である。
大本・日月最大の謎「一厘の仕組」をこのように解釈した人は多分、他にはいない。
 2013年の初頭、私はマスター イブラヒム・ハッサンのメッセージにより、今年は岩戸開き後の初年度として、概ね平穏に推移するだろうと予測した。
 実際、その後、大過なく過ぎて今日は8月の19日である。
最近、ネット上に10月以降の大変を予言する記事を幾つか見かけた。
しかし、私は真っ向から異を唱えてどちらが正しいか勝負する気である。
 仮令(たとえ)今後、異常気象や、自然災害や、経済崩壊や、戦争の機運等がどんなに危機的に見えようとも、それらは常に一定以下にコントロールされたものになる筈である。
 しかし、それは又、最近の楽観的なチャネリング・メッセージの言う所とも違う。
そこでは今直ぐにでも五次元になるような、或いは既になっているようなことを言っているけれども、ことはそれほど簡単でない。
 五次元の前に「四次元の相」(擬似的な四次元)が2020年まで7年間も続くのである。
それが、ほぼ全員アセンションすることを選んだ代償である。
 その間(2015年)には地球の大変動も起る。ある程度の政治、経済、軍事的な動乱も起るだろう。
「改心と掃除洗濯と身魂磨き」を少し時間をかけて、しかし、遅滞なくやらなければならないからである。
 地球の大変動には宇宙船や内部地球からの救済プログラムが発動する。何も心配は要らない。
たとえ何が起ろうと、われわれに出来る最善のことは、神の経綸に全幅の信頼を置き、しっかりと足を地に着けて、日々、身魂磨きに励む(神の大道に生きる)ことである。

 神の大道に生きて実りの秋(とき)まてよ。
まいた種ぢゃ、かならず実る。 誰も横取りはせんぞ。
万倍になってそなたにかへると申してあろう。
未来にもえつつ現在にもえよ。
神相手に悠々と天地を歩め。
(ひふみ神示 第二十六巻 黒鉄の巻 第3帖)



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百発百中だった大本の予言

 出口王仁三郎の霊界からの警告
          武田崇元 光文社 1989年刊

● 日清戦争を完全に予言

  明治26(1893)年夏のことである。
艮(うしとら)の金神が憑かった出口ナオは、とんでもないことをしゃべり出した。

「来年春から、唐(から)と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦。
神が陰から経綸いたしてあるぞよ。神が表にあらわれて手柄いたさすぞよ。
 露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ。あとは世界のおお戦で、これからだんだんわかりてくるぞよ」


 なぜ文字も読めず、ましてや政治・世界情勢のことなどとは全く無縁の彼女が、どうしてこんなことを言うのか、だれにも理解できなかった。

 予言どおり、日清戦争が日本の勝利に終ると、神はナオに次のように告げた。

「この戦いがおさまりたのではない。この戦いをひきつづけにいたしたら、日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにいたしたのでありたぞよ。
 こんどは露国からはじまりて、おお戦があると申してありたが、出口の口と手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」


 実際、軍事的にはさらに兵を進め、北京を攻略することも出来たかも知れない。
しかし、そうなると講和の相手をなくして、戦争は無制限デスマッチの泥沼になる。
 さらに、中国に様々な利権をもつ列強が乗り出してきて、収拾のつかない事態になり、まだ産業基盤も固まらない日本は、早くも亡国の危機に立たされたであろう。
 そのような事情をよく弁えていた伊藤博文らの政府首脳は、講和条約締結を急いだのである。
 しかし、民間では、福沢諭吉のような人物でさえ、「まだ講和の時期ではない。北京を占領して城下の誓いをさせるまで戦いをやめるな」と無責任なことを言っていた。
  これに比べて、丹波の文盲の老婆に憑かった〈神〉は、正しく情勢を把握していたし、さらに日清戦争の始まる前から、それが終ると、いずれロシアと一戦を交えねばならないことを予言し、また警告を繰り返すのであった。
 事実、日本は折角血を流して獲得した遼東半島を、ロシアの圧力で返還することを余儀なくされる。
いわゆる三国干渉であり、以後、日本では「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへの敵愾心が高まって行く。
 丁度この日清戦争と日露戦争の狭間で、出口王仁三郎はナオに出会うのである。
 
● 日露戦争の大予言

 王仁三郎は「大本」入りの翌明治34年の春、信者数名を連れて、静岡の長沢雄楯(かつたて)の許を訪れた。
長沢翁は王仁三郎を神主にして、神降しを行ない、日露関係の将来に関する神意を伺うことにした。
 既に、次の戦争はロシアからであることは、ナオの「お筆先」に出ていたが、そのはっきりとした時期は不明だった。
 二人は手を洗い、口を漱(すす)いで、月見里神社の社前で対座した。
王仁三郎の前には、天上から吊した鎮魂石がある。
厳粛の気が漲るうちに、長沢翁の吹く石笛の音がりょうりょうと尾を引く。
王仁三郎の身体がぴーんと反り返る。
 全くの神憑かり状態になった王仁三郎と、審神者(さにわしゃ)長沢の問答が始まった。

 「日露の戦いは御座いますか」
「あるぞよ」

 「今年で御座いましょうか」
「今年の8月‥‥それが延びたら明治37年の2月になる。
36年の7月ごろから戦の機運が濃くなるが、開戦は37年の2月じゃ


 「日本はこの戦いに勝てましょうか」
「勝つ。勝つが、多くのつわものの命が失われる」

 「平和はいつ来ましょうや」
「2年目の9月までには来る」

 「戦に勝って得られますものは?」
「シナの海岸のごく一部、朝鮮の全部、樺太の南半分を日本が受ける」
 
 長沢雄楯の回想によれば、この問答は約2時間に及び、ロシアの作戦計画から外交談判に至るまで、微に入り細に亘っていたという。

● 「世界に騒がしきことがはじまるぞよ」

「いますぐヨーロッパで大戦争が起る」


 大正3(1914)年5月、王仁三郎は、信者たちのいる公開の席上で静かにこう予言した。
6月28日、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。
 暗殺事件から1ヵ月後の8月には、第1次世界大戦が勃発。
不幸にして王仁三郎の予言は、またしても的中することになるのである。

「艮の金神があらわれると、世界に騒がしきことがはじまるぞよ」(お筆先)

 日本は日清戦争の僅か10年後に日露戦争を体験した。
そして、全てが予言どおり展開して来た。
だが王仁三郎は、その先もまたその先も知っていたのである。
 つまり、日清戦争も日露戦争も、

「水晶の世にいたすまでに、日本にも外国にも、はげしき事件わいてきて、いったんは、世界中の学者も、守護神も手のつけようがなきような事態が出来(しゅったい)いたす」(お筆先)

 そのほんの初発の事件に過ぎなかったのである。

● 「ドイツ皇帝が失脚し、その後あらたな大戦争が起こる」

 王仁三郎が大正6(1917)年11月、創刊まもない「神霊界」に発表した「いろは歌」及び「大本神歌」は、後に『瑞能神歌(みずのしんか)』という小冊子に纏められる。
 何れも、掛けことばや縁語などの修辞を巧みに駆使した五七調の長歌であるが、内容的には、その後の日本や世界の運命を、ずばり指摘した驚くべき予言詩であった。
 まだヨーロッパで戦火を交えていた最中に発表された、この予言時「いろは歌」の中で、王仁三郎は既に1年後のドイツ皇帝の失脚と革命、戦争の一旦の終結を予言している。
 しかし、この予言詩によれば、第一次世界大戦は終結するが、それは単に来るべき動乱の序曲にしか過ぎない。

「日清間の戦いは、演劇(しばい)に譬えて一番叟(いちばんそう)、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年にわたりし世界戦、竜虎相打つ戊(つちのえ)の、午(うま)の年より本舞台」(いろは歌)

 まだ戦争の終結しない中に、既に王仁三郎は「五年に亘りし世界戦」が翌年には終結することをはっきりと予言している。
さらに、この世界戦争はまだ序曲に過ぎない、と告知したのである。
 第一次世界大戦は1914年に始まり、足掛け5年に亘った。
大戦の終る大正8(1919)年は、干支でいうと戌午(つちのえうま)の年であり、この年から「竜虎相打つ」と形容されるような本舞台が始まるというのである。
この予言詩は、第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る、世界史の大きな動きを描き出したものであった。

● 東京は空襲をうけ死体で埋めつくされる

 昭和17年8月7日、王仁三郎は保釈され、7年間の投獄生活からようやく解放される。すでに王仁三郎は71歳であった。
  しかし、王仁三郎は亀岡の自宅中矢田農園に落ち着くや、訪れる信者たちに鋭い予言を次々に放った。

大本神諭に、“未(ひつじ)と申(さる)とが腹を減らして惨たらしい酉(とり)やいが始まるぞよ”とあるが、今年(昭和18年)」は未の年で、羊は下にいて草ばかり食う動物であるから、下級の国民が苦しむ。
 来年は申年で、猿は木に棲むから中流の人が苦しみ、国民の心が動揺してくる。
再来年は酉年で、いよいよ上流の人が困り、むごたらしい奪いあいがはじまる。大峠は3年の後だ」


 これらはすべて予言通りであった。
これらに先立って王仁三郎は信者たちに予言をもとにした教示を与えている。

「東京は空襲されるから疎開するように」

 というと、実際、翌19年11月からB29の東京空襲が始まり、東京の殆んどが荒地焦土と化してしまった。
死者は20万人を超え、隅田川などの大河川は死体で埋め尽された。

「九州は空襲」、「京都、金沢は空襲をうけない」

 と予言されたように、19年6月に北九州も大被害を受けている。
京都、金沢は彼の言う様にその被害を免れた。
 この頃は信者ばかりでなく、大本シンパの軍人や有識者も、頻繁に彼の許を訪れるようになる。
昭和19年には、山本英輔海軍大将の使いで、水野満年がやってくる。
水野は大石凝真素美(おおいしごりますみ)の高弟である。
霊眼によるアドバイスを求めてのことであった。
 困ったときの神頼みで、一部の軍人から、戦局を何とかしてくれというような話は随分あった。
「わしらをこんな目にあわしときよって、偉いやつが総出で謝罪にきよらんと助けたらんわい」というのが彼の返事であった。

「昭和19年は小磯がしうて米内なあ、そしていよいよ日の丸は鈴木野や」

 昭和19(1944)年、東条内閣は総辞職し、予言どおり小磯国昭陸軍大将を首相、米内光政海軍大将を副首相とする内閣ができる。
しかし、長続きせず、翌20年、鈴木貫太郎内閣に代る。

● 「広島は戦争末期に最大の被害を受け、火の海と化す」

 昭和19年、王仁三郎の口からは、まるで自動小銃の如く予言の飛礫(つぶて)が吐き出された。

「火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」

「新兵器の戦いや」

「東洋にひとつおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」


 さらに同年、広島から来た信者にはこう告げている。

「戦争は日本の負けだ。広島は最後にいちばんひどい目にあう。
それで戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」


「広島は戦争終末期に最大の被害をうけ、火の海と化す。‥‥そのあと水で洗われるんや。きれいにして貰えるのや」


 実際、広島は8月の被爆後、9月には2回にわたる大水害に襲われている。
この原爆に関してはすでに18年の段階で、「広島と長崎はだめだ」、と非常にストレートな言い方もしている。
 当時は、軍部でさえもほんの一握りの首脳部のみが「アメリカが新兵器を開発している」ことを漠然と知っていただけで、よもや「東洋が火の海となるような」爆弾であるとは考えてもいなかった。

● 「日本の敗戦後は、米ソの二大陣営が対立する」

  広島が人類史上初の核の洗礼を浴びた2日後、ソ連は抜き打ちとも言える対日参戦を行なった。
これに関しても既に昭和18年に、満州の部隊へ配置される信者子弟たちに対し、

「日本は負ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗が立つ」

 さらに長野の信者たちに対しても、

「20年8月15日に留意せよ」

 と予言し、翌19年の1月には、東満総省長になっていた大本信者の三谷清の許へ、

「いま日本は必死になって南のほうばかり見て戦っているが、不意に後ろから白猿に両目を掻きまわされる」

 という、王仁三郎の伝言が伝えられていた。
また同じ昭和19年に、

「昭和20年葉月(8月)半ば、世界平和の緒につく」

 と立て続けに終戦の予言を出している。
戦後の状況に関しては、既に昭和18年に、

「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立」

 という予言が見られる。

 歴史が王仁三郎の予言どおりに動いて来たのは、周知のとおりである。
しかし、終戦と同時に、王仁三郎はあまり予言めいたことを口にしなくなる。
 そして彼は、一種の芸術家のような平穏な暮らしに入り、とくに、書道、絵画、楽焼きに耽るようになる。
 それは、この激動の時代を体現した稀有の人物に許された最後の平穏な日々であった。


テーマ : 歴史&スピリチュアル・ミステリー
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プロフィール

日月の民草

Author:日月の民草
 ハンドルネーム666です。

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、
666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
(五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第15帖)

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